まず「観念」について。「第五省察」でデカルトは、「三角形を想像するという場合に例をとるに、おそらくはそのような[厳密に数学的な]図形[などというもの]は、私の思惟の外部の世界のどこにも存在することはないであろうし、かつて存在したこともないであろうが」(85ページ)と書いています。つまり観念とは「事物(もの)が存在しなくとも起こりうる」(118ページ)とデカルト自身が認めているわけです。
ならば、デカルトが神の存在証明で使った、「神の観念」にも同じことが言えてしまうのではないか。
「この上もなく完全な存在(もの)が、その名称そのものによって存在をもたらす、ということが与えられたとしても、それでもその存在そのものが、事物(もの)の自然の中で現実に何かである、ということは帰結しないで、ただこの上もない存在(もの)の観念と存在の観念とが不可分離に結合している、ということだけが帰結するのです。そのことからは、あなたはそのこの上もない存在(もの)が現実に存在すると仮定しない限り、神の存在が現実に何かであるとは推論できないのです」(125ページ)。
つまりデカルトの証明では、神が「現実に」存在するとは言えないということです。厳密に数学的な三角形がたぶん実在しないように。
以上がカテルスの第一反論です。
それに対してデカルトの答弁は。観念とは「事物(もの)が知性の外に存在する様態よりもはるかに不完全ですが、それだからといって、すでに前に述べましたように、全くの無ではないのです」(130ページ)。人間が太陽を何だと考えたところで、太陽そのものが変わるわけではないように、観念には何らかの外的な原因があるわけです。
「そして神の観念のうちにある思念的実在性についてもまた同じことが考えられなければなりません。それは実のところ、実在的に存在する神のうちにおいてでないというかぎり、いったい何のなかにおいてそのようであるでしょうか。」(132ページ)。
以下、トマス・アクィナスやアリストテレスの証明とのデカルト論の違いの記述が続きますが、長い上に横道にそれるので今回は省略。かの「天使的博士」については、デカルトを読み終えた上で自分なりにた~っぷりと論じてみたいもので。
以上が第一反論と答弁のあらすじですが、納得いただけたでしょうか。残念ながら私は納得できませんでした。神の観念は三角形なみに人類共通だみたいに言ってますけど、地球上にはキリスト教徒じゃない人の方が多いわけで。デカルトと同時代の日本は江戸時代初期、キリシタン禁制の社会でした。神はなぜ、豊臣秀吉だの徳川家康だのといった異教徒を創造したのでしょうか。
で、まさにその点をついたのがメルセンヌの第二反論。
「神の観念を貴下が汲まれたのは、心の先入的省察、書物、友人たちとの語りあい等々からであって、独り貴下の精神からのみ、もしくは存在するこの上もない存在(もの)から、ではないのです」(152ページ)。
日本人は出てきませんけど(オランダと貿易してたのに)、カナダ人やヒューロン人はどうなんだという反論は出てきます。次回もご期待ください。