核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

デカルト『情念論』における「高邁」

 高邁(こうまい)と高慢(こうまん)。日本語だと一文字の差ですけど、デカルトは「高邁」を、「高慢」と全く相反するものと定義します。
 才、美、富、栄誉などの外的なものを尊ぶのが高慢で、自分自身のうちにある自由意志だけを尊ぶのが高邁。
 
   ※
 「彼ら(引用者注 高邁な人びと)は自分の情念を、特に欲望と執着と羨みとを、全く自在に[抑制]するが、それは何一つ、自力で彼らの獲得しえぬようなもので、大いに願望するに値するだけの価値があると彼らの考えるものが、ないためである。また人間に対する憎みを全く自在に[抑制]するが、それは彼らがすべての人間を重んじているためである。また恐れを全く自在に[抑制]するが、それは自分の徳に対して彼らのもつ信頼が、彼らを安心させているためである。そして最後に、怒りを全く自在に[抑制]するが、それは彼らが、他人に依拠するすべてのものをほとんど重んじないので、自分の敵は優れていてそのために自分が傷つけられると認めるほど、それほど敵が恵まれていると、けっして思わぬためである」
 (『情念論』Ⅲ。引用は、所雄章『人類の知的遺産 32 デカルト』(講談社 1981)による)
   ※
 
 ・・・これまで読んできたデカルトの文章の中でも最上の部類と思います。そういう人ばっかりだったら、核兵器および通常兵器の廃絶も夢ではありません。そういう人ばっかりじゃないから核兵器および通常兵器が存在し続けるわけですけど。
 ただ、最近怒ってばっかの高邁じゃない私からひとこと弁明を。怒りというのは「自分が傷つけられると認める」ことだけで生じるのではなく、「自分以外の誰かが傷つけられると認める」ことからも生じるのです。大は国際情勢から、小は文学教育のあり方まで。