核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

第三反論と答弁 9~16(白水社『デカルト著作集 2』 1973)

 このホッブズによる第三反論とそれへの答弁は、一問一答形式をとってはいますが、実際にはまとめて送られてきた反論に、デカルト側もまとめて再反論したものでして(解説 516ページより)、ある反論への答弁が次の反論にフィードバックされることはありません。特に後半は、ホッブズ側が同じことを何度も繰り返し反論し、デカルトもうんざりしているように見受けられましたので、要約も少し駆け足にします。
 
 反論9~11 デカルトのいう「実体」や「神の観念」は証明できていない。結局、神は人間には概念されえない。
 答弁11 「嫌になるまでに繰り返されたところであって、実際ここにはおよそ私の論証を揺るがすようなものは呈示されてはおりません」(230ページ)
 反論12 過誤は欠陥にすぎないというが(第四省察)、石や無生物は過誤すらできない。過誤とは推理するものにのみ可能な積極的な能力なのでは。
 答弁12 過誤は推理する能力の欠陥だが、その欠陥は実在的なものではない。「石は盲目である」とは言わないように。
 反論13 「知性の大いなる光」などという隠喩的な言葉を使っているが、それは論証には向かない。誰だって自分には知性があると思っているのだから。
 答弁13 「知性における光」という言葉によって認識の分明さが知解されるということを知らない者は誰ひとりいない。それは頑迷さとは別だ。
 反論14 三角形が存在しなくなれば、それを人間が理解することもできない。人類が消滅すれば人間の本性もなくなる。つまり、本質は存在に属する。
 答弁14 「本質と存在の区別はすべての人に識られております。(略)すでに前に十分に論じ斥けられたところです」(235~236ページ)。
 反論15 「神は欺く者ではない」説への疑問。病人のためを思って嘘を言う医者、子供のしつけのために嘘を言う父親のような善意の嘘もある。
 答弁15 人間は自ら進んで誤ることはあるが、神は進んで人間を欺くことはない。
 反論16 夢と現実には区別があるというが本当にそうか。「自分が目覚めていることを知る」ことは可能なのか。
 答弁16 過去と連続している夢というのは確かにあるが、目が覚めれば、夢が夢だったことは容易にわかる。
 
 ・・・イギリス経験論と大陸合理論の対決!と言えばきこえはいいのですが、実際には猪木対アリの異種格闘技戦のごときもどかしさがあります。
 ホッブズの反論には面白そうな意見もあるのですが(12、14、15、16。特に16)、デカルトはそれを検討せずに退け、盛り上がらない対話になってしまっています。先に夢とか善意の嘘の話から始めて、最後に神の観念についての疑問をぶつければ、もう少し実りがあったのではないでしょうか。
 実は私も「目が覚めたと思って、起きて着替えて家を出たとたんにその夢から覚めた」体験がしばしばありまして。つくづくリアルな夢を見るたちなのです。リアルでない夢を覚えてないだけかも知れませんが。