(2013年6月12日 追記
「高校世界史レベルの常識」であれば、「ホッブズは王権神授説ではなく社会契約説」が正解でした。お恥ずかしい限りです。
ただ、『リヴァイアサン』第2部の記述を読むと、王権神授説としか思えない箇所もあることは確かです。詳細は本日の記事にて)
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『省察第三論駁』の著者ホッブスはまぎれもない機械的唯物論者である。だから彼が思惟するものが非物質的であるとすることに反対し、想像力から悟性を峻別することに反対し、神についての生具観念はありえぬとし、心についての概念なしと主張し、実体について明晰な観念なしとし、独立・全知・全能な神の存在をアプリオリに証明することはできぬとし、永遠不変の本質があることに反対し、誠実な神が物体の存在を保証するとの主張を拒み、神の認識が知識についての確信を与えるとすることを斥けるなど、デカルト形而上学のほとんど全般に拒絶の意向を示したのである。ところが彼は神の存在を認める。(略)
ホッブスの神は、ウィリーもいうように、宇宙機械を作った神、理神論的な神に近いものであろう。唯物論者が神を認めるのは一見すると奇異の感がある。しかしホッブスの自然は、ヴァーテニアンも認めるように、進化発展する自然ではない。だからその点で、彼は『創世記』による万有の創造をたやすく認めることもできたし、また唯物論と神との調停に苦労する必要も感じなかったのであろう。
(267~268ページ)
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引用されている『リヴァイアサン』の一節によると、ホッブズはアリストテレスのいう「第一原動者」を、「人々が神という名称であらわすところのもの」と呼んでいます。これ自体は『神学大全』以来のものすごく中世的な伝統なんですけど、なんかまだひっかかります。いずれはリヴァイアサンも読みますけど、その前に片付けることがいろいろとありますので。