核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

デカルトが地動説を発表できなかった事情

 まず、『デカルト著作集 Ⅳ』の訳注と解説(433ページ)をもとにした地動説年表を。
 
1600年 コペルニクス説(地動説)支持者のジョルダーノ・ブルーノ、ローマで火刑。
1610年 ガリレイ木星の衛星を発見。
1616年 コペルニクスの書が法王庁禁書目録に。
1619年 同派の哲学者ヴァニーニがツールーズに火刑。
1623年 同じく詩人ヴィヨが欠席裁判で死刑宣告(後に追放刑に)
1624年 パリで「古代の著作家に反する説をなすことを死をもって禁じる」布告。二名追放。
 
 本どころか本人が焼かれる時代です。そして1633年。『宇宙論』を書いたデカルトは、書簡でこう述べています。
 
   ※
 「ガリレイの『世界体系』がないかどうか問いあわせたところ―去年イタリアで出たと聞いたおぼえがありますので―たしかにその本は出たのだが、出ると同時にローマで全部焼かれてしまい、彼自身も多少の罰金を払わせられたと聞かされたのです。私はびっくりしてしまい、自分が書いたものを全部灰にしてしまおう、少なくとも誰にもそれを見せまいとほとんど肚をきめたほどでした。というのも、もともとイタリア人で、聞くところでは法王のおおぼえもめでたいあの人が罪に問われたりする理由は、たぶん地動説を主張しようとしたらしいということ以外に考えられなかったからです。(略)
 それに白状しますが、地動説がまちがいなら、私の哲学の土台も全部まちがいになってしまうのです」
 (435ページ)
   ※
 
 つまりガリレイ裁判を知って日和ったと。つい永井荷風を連想する国文学者。
 ただ、地動説の公表は見合わせたにしても、地動説の信念そのものを捨てなかったデカルトは立派だと思うのです。ガリレイやブルーノ以上だというコイレ説はほめすぎだとは思いますけど。
 なにしろ17世紀の人なので、デカルト宇宙論にも今日から見ればトンデモな主張はいろいろあります(四元素説とか)。ただ、彼は世間の常識と自身の良識が対立した際、良識を捨てて常識に迎合しようとはしなかった。それは評価します。そういう人々が人類を進歩させてきたのです。