あの北原白秋も反戦詩を書いていたことだし、人への批判というものは慎重にやらなければいけないことはわかっています。しかし、小林湯川対談(一九四八)の、
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小林 デカルトの持っていた延長という考え・・・・・・物質即ち延長という考え、ああいう着想もだんだん発展していくと、空間即ちエーテルになったり、光になったり・・・・・・そういうことと同じのような気がします。
第五次『小林秀雄全集』第八巻 二七五頁
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これはどうもいただけません。湯川はこの発言に直接答えずに、ロックの経験論に話題を移していますが。
しろうとの私がどうこう言うより、湯川秀樹の別の文章を引用しましょう。
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(空間にはエーテルが満ちていて、電気や光の現象を起こすという仮説に対して)
併し御承知の如くエーテルの仮説は今日では最早成立し得ない。相対性理論によりまして、エーテルといふ概念は抹殺されたのであります。
湯川秀樹「素粒子概念の変遷」『日本諸学振興委員会研究報告 第15篇』(文部省教学局 昭和15-18 二一四頁)
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村井弦斎が二十世紀初頭前後に書いた発明小説『日の出島』にもよくイーサー(エーテル)が出て来ますが、あれは特殊相対性理論(一九〇五)より前の話です。古典物理学でのエーテルは、とっくに否定された考えなのです。
もう一つの、「物質即ち延長」も、現代物理学では廃れた思想です。ふたたび湯川論を前掲書から。
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所が量子論が出ましてさういふ連続的な考へ方―物質そのものは不連続であるけれども、物質の変化、換言すれば作用とか、力とか、エネルギーといふものは連続的なものである、自然現象は連続的変化として記述できるといふ考へ方―は間違つて居ることが判つたのであります。
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物質そのものも不連続、物質の変化も不連続です。小林の発言は二周遅れのようです。
デカルトが悪いわけではありません。かつてデカルト著作集を読み込んだ私が申しますが、デカルトはガリレイとは別個に地動説を記述し(ただし公表はせず)、反戦詩「平和の訪れ」を執筆するなど(こちらは公表)、一六〇〇年代の人物としてはきわめて進歩的でした。ただ一方では「物質は延長なり」とか「空間即ちエーテル」といった、二十世紀以降の物理学では否定されることになる考えも持っていたわけです。数百年前の人なので、すべての面で進歩的でなかったのは仕方がありません。
悪いのは、対談で「わかりました」を連発しておきながら、一七世紀デカルトの物理学を湯川秀樹相手にひけらかす小林秀雄です。いったい何が「わかりました」なんでしょうか。現代物理学を何もわかってなかったわけです。