公判が開始される直前の1941年2月、河合は『国民に愬う』という論文を書きました。米英との戦争を不可避とし、日独伊三国同盟という「道徳的義務」の貫徹を愬(うった)えた内容です。
必ずしも現日本政府に迎合、屈服したものではなく、現に出版差し止めにあったとのことですが、より大きなものに妥協してしまった印象は受けます。河合栄治郎はもともと、自由主義者・平和優先主義者ではあっても、絶対平和主義者ではなかったことを思えば、これは妥協というより、彼なりにたどりついた結論なのでしょう。
かつて彼自身が書いた通り、「波に浚はれずして独り止まることは至難の事」であった。そう考えさせられます。