核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

蜷川新「私の歩んだ道」(1952)

 一九五二年八月二十日の日付がある、蜷川新の自伝、「私の歩んだ道」より。

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 大正七年の春、日本赤十字社は、石黒社長の代理として石黒忠篤(いしぐろただあつ)氏を、私の大磯の私邸によこされた。そうして、日本赤十字社の顧問使として、ヨーロッパに行くことを申しこまれた。
 (略)
 第一次大戦の末期であったが、まだいずれの国でも、ドイツの敗北を予断する人はいなかった。

(引用者注 嘘です。『実業之日本』誌のインタビューでも星一ら大半の識者が、ドイツの早期敗北を予想しています 以下数行略)。

 私は各国の国王や、政治家や、学者や、軍人や、一般人やに接触して、いろいろのことを研究した。その研究の結果は、かねて約束してあった陸相田中義一氏にたびたび報告した。また私の視察と感想とは、私が著書をもって、世に報告してある。(『復活の巴里より』という著書が[#「著書が」は底本では「著者が」]出ている。)私は知人の田中陸相から、ドイツ軍のおこなった「占領地行政」をくわしく調査することを、出発前に依頼されていたのである。私はフランスの陸軍省に申し出て、ドイツ軍の全占領地を、フランスの一陸軍中尉をともない、一週間にわたって、くわしく調査したのであった。フランスの陸軍はよく私を知っていた。
 私は大戦の悲惨を目撃して、世界の平和永続の方策を研究した。そうして、第一次大戦が終ったのちも、赤十字事業を引きつづき平和時に、全世界にわたっておこなうことを、列国間に新たに条約すべきことを、列国の有力者に力説した。それが国際連盟規約の第二十五条となった。またそれが、赤十字社連盟規約の締結となって、世界に新しい「赤十字世界」が、創建せられたのであった。人道、平和上の一事業であることを、私は信じている。
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 これが全部本当なら立派なのですが。
 『復活の巴里より』(1920)は近代デジタルライブラリーで読めるのですが、陸海の大軍を国際会議に派遣して日本が有利になるように進めろとか、まるで火事場泥棒のような意見です。戦後の回想とはまったく違います。
 そしてその時期の『実業之日本』に、蜷川新はこうも書いていました。

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 仮りに世界の大国が戦後合意して兵備を全廃したとしたらば如何乎(どうか)、日本は之れに加入せずに、依然として軍国主義を取つたとすれば、世界の征服は、日本人の手で易す易すと出来上がり、其の以後には国内警備の警官のみを以て済む様になるであらう、是れ誠に賀す可き事であつて、戦後(引用者注 第一次世界大戦終結後)日本は斯る場合ありとし、依然軍国主義を取る可しと主張せざるを得ぬ。
  『実業之日本』1918年1月号特集「軍国主義か平和主義か」(16ページ)
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 彼にとっての「平和」とは、他国がおとなしく軍備を捨て、日本だけが軍事大国として君臨する状態にすぎないのでしょう。彼の戦時中の論はいつも、国際法を専門とする法学博士にあるまじき、幼稚な軍国ロマンティシズムです。
 この人物をこれ以上調べても得るものはなさそうなので、ここまでにします。