核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

いまどき私小説批判でもありませんが。

 「小説家を書く小説」なんてのは一見魅力的に見えても、ネタ切れ・自家中毒になりやすいものでして、「小説の書けぬ小説家」的な話になりかねないものです。村井弦斎の「小説家」(1890~91)は、明治前期にしてはがんばったメタフィクションですが、それでも後半はたるみ感が否めませんでした。
 反戦・非戦小説についても同じことが言えそうでして。

 「何によって戦争を阻止する?」
 「小説で!」
 「その小説には何を書く?」
 「小説で戦争を阻止する様を」

 では自家撞着になってしまうわけで。「戦争を阻止する小説」の中身は、「小説家を書く小説」であってはならないと思うのです。
 で、大正期の反戦作家たちは、「薬」、「協同組合」、「国際政治学」、「女性文明」などといった、文学の外部の知の力を借りる必要があったわけです。
 今後書かれるであろう反戦文学、およびその分析にしても、隣接諸学からの吸収が不可欠であると思います。