核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに、帰結主義的に答えるなら

 私はきちんとした哲学的思考の訓練を受けていないので(受ける機会はあったのですが)、我流で手探りの記述になることをお許しください。

 「国家(あるいは宗教、市民社会、常識)がそう決めているから」という答えは、

 「ならば国家(以下略)が殺せと命じたら?」との反論に答えられないゆえにまずい、と前回述べました。そして、戦争下にあっては国家や宗教や市民社会や常識が成員に「殺せ」と命じることは、それこそ当たり前の光景なのです。

 哲学者もあまりあてになりません。『永遠平和のために』を書いたカントでさえ、自衛のための戦争は否定しきれませんでした。ヘーゲルのように、「戦争は善い。平和は社会を腐らせる」という哲学者もいるくらいです。レヴィナスが聖書のアマレク人虐殺を「アマレク人は根源的な悪の体現者」だからと正当化していることも前に述べました。そんなレヴィナスの哲学から、「人を殺してはいけない」理由を導き出すのは不可能でしょう。集団(国家など)の内部の義務論にこだわる限り、その外部の成員を納得させる答えは出ないように思います。

 で、帰結主義(損得勘定)。「逮捕されるから」「死刑になるから」あたりが、最も素朴なその形でしょう。しかしこれも、逮捕や死刑を恐れないタイプの犯罪者には通じない恐れがあります。また戦争の話になりますが、勝てば官軍で、勝った側の軍人が殺人罪に問われる例はめったにありません。東京裁判史観が信用できないゆえんですが、それはまた別の問題で。

 泥沼にはまってきました。絶対平和主義者を自認する者が、帰結主義で「なぜ人を殺してはいけないのか?」に、平時のみならず戦時でも通用する答えを出そうとした方針自体、間違っていたのかも知れません。今の私の力では明快な答えを出すことはできないようです。

 ひとまず思いついたスーパー帰結主義

 

「それを認めると、あなたがまっさきに殺されるかも知れないよ」

 

 身もふたもない上に、誰でも思いつきそうですが。実際、誰もがこれを思いついたからこそ、原初の社会は成立したのかも知れません。

 しかし、これも世界平和の道徳的根拠にはなりそうにありません。もう少しこのテーマを考えてみるつもりです。