核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

絶対平和の倫理的根拠について

 せっかくの大晦日を、レヴィナスへの批判で終わらせるのももったいないので、前回の主題をもう少し一般化してみます。

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問われて、「聖書に『汝、殺すなかれ』と書いてあるから」と答える人には、「では、聖書に『殺せ』と書いてあったら殺すのか」という反論が成立してしまうわけです。

 実際に聖書を読んでみればわかりますが、「殺せ」と書いてある箇所はアマレク人皆殺しに限らず、いくらでもあるわけです。そういう書を絶対視するレヴィナスも、「預言者の聞き間違いだろう」と聖書の権威そのものは疑わないブーバーも、五十歩百歩です。そういう信仰は民族や宗教の壁を越えた、絶対平和の倫理的根拠にはなり得ません。

 せっかくの大晦日を、無神論者のありがちな聖書批判で終わらせるのももったいないので、さらに少し一般化してみます。

 外部の権威や権力が命じるから殺さない、常識や法律で決まっているから殺さないという答えは、実は非常に危ういものだと思うのです。戦争という事態、まさに権威や権力が殺せと命じる、常識や法律が殺せと命じる状況で、いかにして「それでも殺さない」を貫くか(ごく少数ですが、当ブログが扱ってきたように、貫いた人はいるのです)。

 では彼ら少数者の絶対平和主義はどこから生じたかというと。内部の良心から、と答えるにはちょっと戸惑いを感じます。人間の本性に先天的に「殺さない」良心が備わっているという仮説は、戦争があまりにも多く、絶対平和主義者があまりにも少数派であることから考えて非現実的です。

 絶対平和、あるいは「殺さない」ことへの倫理的根拠が、人間の内部にも外部にも求められないとすると……ありがちな答えで恐縮ですが、間―外部によって変化した内部。いくつもの集団を横断し、いくつもの権威や常識にふれることで、自分の集団だけが絶対ではないと後天的に気づくこと。

 今のところ実証的な例にはとぼしいのですが、そうした考えを私は抱いています。