核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

橋本昇二「要件事実原論ノート 特別章その1 (藤村啓教授退職 記念号)」(『白山法学』2015年3月)

 いきなり固そうな論文ですが、「なぜ人を殺してはいけないのか」で検索して発見しました。その問いに法学の立場から、実に誠実に答えた論文です。

 まず諸家の意見。

1 大江健三郎「まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」

2 内田樹「その場でその中学生の首を絞め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」と言えばよい」

3 吉本隆明「「ナイフをやるから俺でも隣りの人で誰でもいいから殺してみな」と言えば、その疑問は飛んでしまうと思うんです」

4 宣教師ヒュー・ブラウン「神の存在を知ってからは、・・・人を殺してはいけないことがわかりました。人間に命を与えたり、奪ったりすることができるのは神だけだからです」

5 哲学者永井均「①「どうして人を殺してはいけないのか」という問いについては答えがない、②答えようとすると嘘になる、③ニーチェの究極の答えは、「どうしても殺したければ、そうするべきだ」というものだった」

6 評論家小浜逸郎「①個人的な、かつ、内面的な倫理(道徳)に求
めるのではなく、②そのような倫理(道徳)が形成された社会的な根
拠や系譜(歴史)に求めるべきであるとし、③具体的には、共同体成
員が相互共存を図るために必要であったことに求める」

そして7 法学者 橋本昇二「人が他人を殺してはいけないのは、正当防衛などの事由がない場合であり、その殺人が許容されない理由は、社会共同体の維持・存続・発展のためである」

 

 大江健三郎内田樹吉本隆明の三氏は当ブログもたびたび批判してきましたが、今回も彼らの問いは不適切です。橋本氏も述べているように、問いに正面から答えず、権威・権力で封殺しようとしているだけだからです。

 宣教師ブラウンの答えも、無神論者に対しては有効とは言えません。

 橋本氏が評価しているのは、このテーマで本も出している永井・小浜両氏の意見です。「人を殺してはいけない」という規則には例外が多々あり(正当防衛・安楽死・死刑・戦争など)、殺してはいけないのは共同体の存続のためだからと。国家が定める法律の側からの回答としては模範的に見えます。

 しかし、私はこの模範解答に満足していません。「戦争ならば人を殺しても「善い」のか?」と、問わずにはいられないからです。

 もっと一般化すると、共同体に属さない者、共同体から無用とされた者は殺してもいいのか。いいわけがありません。私やあなただって、イスラム国という共同体から見れば共同体に属さない者、殺すべき異教徒なのですから。

 橋本氏の回答は国内レベルでは穏当に見えても、人類レベルでは不徹底なのです。それでは国内の殺人は禁止できても、国家間の戦争を止める論理にはなりません。

 正当防衛・安楽死・死刑・戦争などの例外を設けず、「いかなる理由があっても、人は人を殺してはいけない」という倫理が要請されます。

 

 そんなわけで8 菅原健史「どこの共同体も、その共同体に属さない者、無用有害な人間は殺して当然とし、それが戦争や差別を産み、人類全体の住み心地を悪くしている。戦争や差別を起したくないのであれば、人を殺してはならない」

 

 これまでの諸家との違いは、自分が属する共同体のためだけではなく、属さない共同体のためにも、人を殺してはいけないという方針です。もう一つ、大江・内田・吉本の意見と決定的に異なるのは、三者が「人が人を殺すのは例外状況だ」ととらえているのに対し、私が「人が人を殺すのは例外状況ではない。むしろありふれた事態であり、それゆえに反対せねばならない」と考えている点です。

 「戦争や差別はあったほうがいい」というヘーゲル主義者に、こういう意見が通じるとは思いません。ヘーゲルの末流であるマルクス・レーニン主義者にはなおさらでしょう。先の意見「8」は原則論であって、もう少し帰結主義的にかみ砕く必要はあると思います。現時点では、「8」がせいいっぱいの私の答えです。