核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「走れメロス」ならば、教えたいかも

 ま~た核通のキャラに合わないことをとも思われるかもですが、「走れメロス」、今の私はけっこう気に入っています。発端が暗殺未遂なのは、ちょっとまずいですが。

 批判の多い作品であることは知っています。星新一も「走れメロス」を、「愚作であり、ゆえに教科書むきなのだ。太宰らしさが、ちっともない」と述べていますし、反抗期まっさかりの青少年が、これを読んで即座に「そうか、信頼って大事なんだなあ」とすなおに共感するとも思えません。「偽善的だ」「読んでて恥ずかしい」「シラーのパクリなんじゃないですかあ」といった反発も出てくることでしょう。しかし。

 青少年もいつまでも青少年ではありません。このアベノミクスの不景気下、就職がうまくいくとは限らず、生活に困ることも多いでしょう。そんな時、比較的恵まれていた、働かなくても生活できていた学生時代のことをふと思い出すというのは、私にも身に覚えのあることです。たとえば教科書の一節を。そして、

 

 「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」(芥川龍之介羅生門」)

 

 「私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。」(太宰治走れメロス」)

 

 のどちらを思い出すかは、その人の一生を左右する問題です。日給百万円の闇バイトに手を出して強盗になるか、まじめに働いて生きていくかの境目です。私が「羅生門」ではなく、「走れメロス」を教えたい理由はそこにあります。大学受験のためなんかではなく、その後の教え子の一生のためにです。

 私は物理の授業を受けたことはないのですが、まさか高校生にプルトニウムを扱わせたりはしないでしょう。それと同じで、毒のある危険な文学を扱いたいのであれば、せめて心身ともに成人してからにすべきです。こっそり読むのは自由ですが、教室で「羅生門」を教えるのは賛成できません。