核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「戦後平和主義」の反対語は?

 日本国憲法第九条が定めた、いわゆる「戦後平和主義」に、なぜか欺瞞や違和を感じる人もいるようです。武力保持の禁止とはいっても、それは在日米軍の圧倒的な武力による押し付けではないかと。そこまでは理解はできます。本当に日本国憲法遵守を掲げるのであれば、自衛隊在日米軍も廃絶しなければ筋が通らないはずです。

 しかし、戦後平和主義への反発をこじらせるあまり、再軍備論や核武装論にとびつくのはまったく賛成できません。中二病だった過去を恥じるあまり、高二病をこじらせる類です。

 私は、「戦後平和主義」の正しい反対語、論じるに値する対義語は、「戦前平和主義」だと考えます。ここでいう「戦前」とは明治維新から太平洋戦争敗戦までで、自由民権運動期の植木枝盛、小野梓に始まり、矢野龍渓が初めて「平和主義」の語を用い、日露戦争期の木下尚江、第一次世界大戦期の村井弦斎はさらに進めて、軍事力の廃絶による絶対平和主義を論じました。彼らは戦時下(あるいは戦間期)、大日本帝国憲法第11条が「天皇は陸海軍を統帥す」と定めていた時代に、それよりも高い倫理から、憲法を超える世界平和を訴えていました。

 私は博士論文『明治の平和主義小説』で、文学の分野に限ってではありますが、彼らの仕事をある程度明らかにしました。しかし、かんじんのその先、

 「武力を持たずして、いかにして平和を保持するのか?」

 という問題には答えられませんでした。考察の至らなさを恥じるのみです。

 とはいえ、戦前平和主義の分析は、戦後平和主義だけを見ていては出てこない視座を提供してくれます。

 憲法を不磨の大典視するのは倫理的に危険であること(何度も同じことを書きますが、日本国憲法は日本以外の国を束縛する憲法ではないのです)。

 平和主義と社会主義は水と油どころか、「混ぜるな危険」であること。

 核兵器だけをタブー視するのは狭い視野であり、兵器をもって兵器から身を守るという思想自体が誤りであること。

 ゆえに、兵器から身を守るための、兵器以外の「何か」が要求されること。そこまでが現在の私の到達点です。