核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ウルトラマン(超越者)ではなく、ノーマルマン(通常人)による平和

 ウルトラマンというのは狭義には、怪獣や宇宙人を倒して地球人を守る架空の巨人ヒーローをさすのですが(「シン・ウルトラマン」や「ウルトラマンデッカー」は未見)、今回の議論では解釈を拡大して、人間ではない超越者を指します。

 こうした、〈ウルトラマン〉(超越者)たちが戦いで平和を実現する物語の系譜に対して、〈ノーマルマン〉(通常人)による平和の系譜といったものを挙げてみたいと思います。

 (以下、微ネタバレ)

 第2のタイプとして、三島由紀夫の『美しい星』では、自分を宇宙人だと思い込んで(あるいは自称して?)世界平和にいそしむおじさんが登場し、江戸川乱歩の『宇宙怪人』では怪人二十面相こと遠藤平吉が宇宙怪人に化けて世界平和を訴えるわけですが、これらは通常人が超越者を装うという点で、今回の議論ではウルトラマンに「準ずる」存在とします。

 第3のタイプとしては、(またか、かもしれませんが)春秋時代の宋の大夫、向戌(しょうじゅつ)。彼は外国の大夫数名と親しく、そのコネクションを利用して、おそらく世界初の国際平和会議を開きました。

 古代ギリシアアテネの喜劇詩人、アリストパネス。彼は『アカルナイの人々』『平和』『女の平和』の諸作品で、ポリス(国家)の壁を越えて活動する平和主義者を描き、上演しました。

 在米日本人であった坂井米夫は、昭和天皇にあてた書簡「裕仁さん」を書き、パラシュートで大戦末期の皇居に降下して平和を訴えようとしました(もちろん未遂)。

 大夫とか喜劇詩人とか在米日本人というのは一般民衆から見れば特権階級かも知れませんが、少なくとも君主やアルコン(執政官)や天皇ではない通常人であり、今回の議論でいうウルトラマンでは「ない」通常人とします。

 さて、何が言いたいのかというと。私が理想としているのは第3のタイプ、ウルトラマンそのものでもなければウルトラマンに準ずる通常人でもない、まったくの通常人による平和であるということです。

 超越者による平和というのは、ウルトラマンシリーズが2023年まで続いているように魅力的なものではあるのですが、それを現実世界で実現しようとした場合、たとえば覇権国家による軍事制裁であるとか、国際連合による平和強制といった、上からの、力による抑圧的な平和という形をとります。それを好ましい平和の形であるとは、私は思いません。

 それに対して私が理想としているのが、横からの平和です。通常人である主体が、これも通常人である客体に呼びかけることによってなされる、力によらない平和。

 「『話し合い』か?うまくいくわけないだろ」というご批判はあるかとは思います。

 確かに向戌の弭兵(戦争停止)やギリシアの「ニキアスの平和」は十年足らずしか続きませんでした。三島『美しい星』の後半では、話し合いを試みた平和主義者が完膚なきまでに論破される光景が描かれています。

 ただ私に言わせれば、話し合いによる平和の試みは、戦争の実例に比べて、試行数が少なすぎるのです。最低限、通常人の話し合いによる平和の試みが実在したことだけでも、もっと知られてほしいものです。