核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

「劉備ぐらいまではできるのだ」

 『三国志演義』全百二十回中の第百十九回。劉備孔明も亡き後、ついに蜀の国を征服した鍾会という将軍が、謀反を決意する場面。前にもうろおぼえで書きましたが、このたびは正確に引用します。

 

 「わしの腹は決まった。首尾よくゆけば天下を握ることもできるのだし、またもし仕損じたとて西蜀にこもれば、劉備ぐらいまではできるのだ」

 平凡社『中国古典文学全集 第九巻 三国志演義 下』三九五頁

 

 ラスト近くになって、まさかの主人公否定。劉備ぐらいまでって、これまでの劉備たちの苦闘(と、それに付き合ってきた読者の労力)を何だと思ってるんでしょうか。

 結局、関羽張飛もいない鍾会が第二の劉備になれるはずもなく、糸を引いていた蜀将の姜維もろとも非業の死をとげます。

 とはいえこのセリフ、私には決して不快ではありません。なんか映画が終わって真っ暗になった後、うっすらと照明がついて、物語の世界からだんだん現実に引き戻される、あの心地よい感覚に似ています。

 『水滸伝』や『紅楼夢』の結末にも、似たような味わいがあります。またいずれ。