この松元雅和氏と私、菅原健史は、ちょっとしたご縁があります。
松元氏の著書『平和主義とは何か』(中公新書 二〇一三)の末尾に、W・ジェイムズの
「平和主義者は、軍国主義者の審美的、道徳的な見地にもっと深く踏み込んでいくべきである」
で始まる「戦争の道徳的等価物」を引用し、その引用については、「菅原健史氏のブログから学ばせて頂いた」(あとがき 二二五頁)と記述してくださいました。察するに、W・ジェイムズ 「戦争の道徳的等価物」 - 核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ (hatenablog.comと思われます。ありがたいことでした。
しかし、先頃入手した、「ウクライナ戦争と平和主義のゆくえ」(『世界』二〇二二年一二月)を読むと、ありがたいこととばかりは言えなくなりました。ジェイムズは軍国主義者との対話の必要性を述べはしましたが、軍国主義者の言うことを、はいはいとなんでも受け入れろとは言っていないはずです。
「ウクライナ戦争と平和主義のゆくえ」を読むと、どうも松元氏は正戦論に対して優しすぎ、絶対平和主義に対して厳しすぎるようです。三浦瑠麗氏の徴兵制復活論をまじめに評価する(二〇七頁)反面、非武装中立論については「理念と現実との乖離はますます広がるばかり」(二〇八頁)と一蹴なさっています。
結果として二〇二二年の松元論は、二〇一三年の著書で主張していた平和優先主義よりも、正戦論に大きく寄った論調になっています。
正戦論の反対側に位置する、絶対平和主義の側がだらしないから?その通りで、私はいまだに単著『戦争の止め方』を刊行できずにいます。ウクライナ侵攻についても、「こうすれば軍事力によらずして戦争は止まる」という案は出せずにいます。
しかしそれでも、私は絶対平和主義を手放したくはないのです。正戦論はたやすく聖戦論に、熱狂的な戦争賛美に陥りがちな滑りやすい坂であることを、日本近代の言論史を通して私は知っています。
松元氏を責める異図も、その資格も私にはありません。一刻も早く、『戦争の止め方』を完成させないことには。