核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

W・ジェイムズ 「戦争の道徳的等価物」

 昨日(8月9日)の記事で、平和優先主義(パシフィシズム。抑止力としての軍事力を認める立場)と絶対平和主義(パシフィズム。抑止力としての軍事力すら放棄する立場)の区別について論じました。平和優先主義から絶対平和主義にいたるための道について、ウィリアム・ジェイムズの論文「戦争の道徳的等価物」を参考に、もう少し詰めてみます。
 以下は私が以前に書いた論文「木下尚江『火の柱』論―実効性ある反戦小説のために」で引用した、「戦争の道徳的等価物」の一部です。誰も読んでくれてないみたいなのでここに再録します。誰かさんが「二重投稿だ!」とか騒いでくれると私は非常にありがたい。
 
 ただ戦争に金がかかることや戦争の恐ろしさを訴えて反対するだけでは、軍国主義者の議論には十分に太刀打ちできない。恐怖はスリルとなるのだ。(略)平和主義者は、軍国主義者の審美的・道徳的な見地にもっと深く踏みこんでいくべきである。(略)反軍国主義者は、戦争の規律的な役割に代わるもの、つまり適切な行為とは何なのかを別のやり方で教える道徳的代替物を提案しないかぎり、いつになっても議論の非生産性を認識できない。
  ウィリアム・ジェイムズ「戦争の道徳的等価物」(本田理恵訳)所収 スティーヴン・C・ロウ編著『ウィリアム・ジェイムズ入門』一九九八 日本教文社
 
 要するに、戦争を本気でなくしたいのであれば、戦争の代わりになるものを考えよう、ということです。

 たとえばスポーツ。熱狂的な応援団が暴れたりすることはあっても、オリンピックや各種スポーツの世界大会が、愛国心や自尊心の健全な発散先になり、大きな経済効果をもたらしていることは確かだと思います。
 あるいは芸術。音楽・アニメ・ゲームなどの娯楽作品の中の優秀なものは、国境を越えた影響力を持ちます。○国はなんとなく嫌いだけど、○国産のアニメは好きだ、といった現象は、平和主義者にとって好ましいことです。
 そして、私が最も注目しているのは、芸術の一分野である文学であり、文学のそのまた一分野である平和主義小説です。平和を祈るのではなく、平和の実現手段と意義について読者に考えさせる小説。
 小説が戦争を止めた例など、歴史上一回もない?それは事実です。しかし、木下尚江の「火の柱」(1904(明治37)年1~3月。つまり日露戦争の開戦直前から直後の連載です)に関していえば、かなり惜しいとこまで達した実例です。日露戦争を阻止するために新聞連載されたこの小説は、その最終目標は果たせなかったにしろ、戦時下の日本でベストセラーとなり(戦争賛成派の批評家さえ、しぶしぶ認めています)、反戦を訴える平民社の貴重な財源となったのです。
 2011年の私から見てもよくできたこの小説が、なぜ「惜しいとこまで」どまりだったのか。より強力な反戦小説を生み出すにはどうすればいいのか。それが私の研究テーマです。
 
 2014・4・3追記 以前「戦争の道徳的代替物」と書いてしまいましたが、正しくは「戦争の道徳的等価物」でした。訂正してお詫びします。