まず松元雅和氏の『平和主義とは何か』より、ラッセルの言動を。
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ラッセルは第一次世界大戦時、教職追放や投獄の憂き目を見てまでイギリス参戦に反対したが、ヒトラーを阻止するための第二次世界大戦参戦には賛成した(それどころか、冷戦初期のごく短期間には、ソ連が核武装する前に予防戦争を仕掛けることまで勧めている)。実際、ラッセルは次のように述べて、明確にある種の非平和主義―正確には、次章で取り上げる正戦論―の立場を打ち出している(『常識と核戦争』(一二三頁)。
私はいまだかつて完全な平和主義者であったことはありませんし、戦争をなす者はすべて有罪と宣告されるべきだと主張したことはいかなるときにもいちどもありませんでした。私が考えてきたはずのものは常識のそれで、つまり或る種の戦争は正当化され、或る種の戦争は正当化されないという考え方を私はしてきました。
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この言動を読む限り、ラッセルは平和主義者の名に値しないとしか読めないわけですが(そのことをもって、ラッセルの業績を否定する気はありません)、同書の冒頭四ページで、松元氏がラッセルを平和主義者の代表の一人のように挙げているのは、どうもまずい。戦術的というか平和術的にまずい、と思うのです。
「すべての戦争に賛成する」戦争愛好家など、現実世界にいるわけがないのです。ヒトラーは日本やイタリアとの戦争には賛成していないし、スターリンもアメリカとの戦争には賛成しませんでした。「ある種の戦争は正当化され、ある種の戦争は正当化されない」なんてのは当然のことで、平和主義でもなんでもありません。
ラッセルはそれでいいとして(本人が完全な平和主義者ではないと言っているのですから)、松元氏がご自身の立場でもある「平和優先主義」の代表者としてラッセルを掲げるのはどうもまずいのではないかと、他人事ながら気になる訳です。まさか松元氏が正戦論に簡単に屈するとも思いませんが、平和優先主義というものがいかにも滑りやすい坂のように誤解されるのではないかと危惧します。