とりあえず、一般論から論じ始めます。
「無謬説」は「むびゅうせつ」と読みます。「謬」は「間違い」の意味。
「○○さまには決して間違いなどない!」という主張を「○○無謬説」といいます。
歴史上では、「聖書無謬説」とか「教皇無謬説」なんてのがキリスト教徒によって主張されたわけですが、今日の良識ではどちらも間違いだらけであったと明らかになっています。
キリスト教に限らず、仏典だろうがコーランだろうがマルクスだろうが新興宗教だろうが、無謬説を唱える集団ほど、対話や議論による抑制が働かず、結果としてひどい誤謬、非論理的な間違いに、必ず陥るものです。
これを私は「『○○無謬説』は必謬への道」と呼びます。無謬説は必ず間違うという意味です。もちろん人間は対話や議論を重ねた末に誤ることもありますが(私は民主主義無謬説ではありません)、○○無謬説は「必ず」誤謬に陥る道です。
私の専門である文学研究でも、○○無謬説はしばしば見受けられます。
「ははあ、あの人の話か」
と、恐らくはあなたが嫌いな人を連想する前に、ちょっと待ってください。警戒すべきはあなたが嫌いなあの人ではなく、あなたが尊敬してやまない人の方です。聖書無謬説を嘲笑する人自身が、神道無謬説に陥っていないかどうかが問題です。それに近い例は歴史上多いのです。
もちろん、自戒をこめての論です。私が尊敬してやまない村井弦斎ももちろん無謬ではありません。明治期の軍国主義傾倒をはじめ、多くの間違いをしてきた人ですが、後には己の間違いを認め、○○無謬説に陥らなかった人です。
近日中に読みに行く「水の月」は、弦斎が平和主義から軍国主義に移行してしまう、まさにその時期の作品です。弦斎の間違いから何かを学べるものと、私は期待しています。