『桑の弓』は、一応、私のライフワークである「戦争の止め方」を扱った作品ではあります。
しかしその止め方というのは、シベリアに送られた反政府派の人々を扇動して、ロシアと日本の間に独立国を作らせる、という乱暴なものでした。
どうも山県有朋の利益線論(日本を守るために朝鮮を盾にする論)と大差ない気がして、あまり好感は持てません。
では、そういう政治小説的な含意を脇に置いて、『桑の弓』を読み直すことは可能でしょうか。
同作品では異言語によるコミュニケーションが繰り返されてまして(外国語学校出身の主人公はロシア人と話ができますが、他の日本人にはそれがわからない、といった具合に)、言語論とかメディア論といった切り口はあるかも知れません。
そうした方面は私は不得手なので、『桑の弓』論は見送ることになるかも知れません。ちょっと惜しい作品ですが。