核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

過失には寛大に、罪悪には厳格に

 村井弦斎女道楽』の序文には以下のような文があります。前作『酒道楽』の主人公は改心してハッピーエンドになったのに、『女道楽』が悲惨な結末に終わったのはなぜかという、読者からの質問に対して。

 

 「酒道楽は人の過なり、女道楽は人の罪なり、過は改めしむべし、罪は終世消ゆべからず」

 

 酒道楽も度を過ごすと罪になると、自戒をこめて私は思いますが、それはともかく。

 過失と罪悪は区別されるべきだという弦斎の意見に私も同意します。表現の分野でもそれはあてはまります。

 たとえば私は初期のこのブログで、アルゼンチンの作家ボルヘスの、忠臣蔵を題材とした小説の、時代考証の誤りにつっこみを入れました。

 

 ボルヘス 「不作法な式部官 吉良上野介」 - 核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ (hatenablog.com)

 

 が、私はボルヘスの無知を嘲笑するつもりで上記の文章を書いたのではありませんし、ボルヘスも日本人の野蛮さを差別するつもりであの小説を書いたのではないでしょう。そもそも私はアルゼンチンについて、それこそボルヘスの小説を通してしか知らないに等しいのですから、分が悪いのは私のほうです。むしろボルヘスの知的好奇心を讃えるべきでしょう。過失をあげつらうよりも。

 以下は、個人の間にもいえることですが、第一印象で相手を完全に理解できるなんてことはめったにありません。最初は誤解からはじまっても、つきあいを重ねるうちに誠実に誤解を修正していけば、より深い理解に至るのが普通です。

 しかし、何度指摘されても誤ったイメージを修正せず、開き直るのは問題であり、それは「過」ではなく「罪」と呼ばれるべきでしょう。