核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

個人史よりも社会的影響の観点から

 どうもここ数日、素人精神分析批評というか、通俗的なファミリーロマンスに陥ってしまったことを反省しています。弦斎の原動力が仮に父(清)との葛藤にあったとしても、私の力では証明不可能なのでした。
 そもそも私の専門は「文学と平和」、もう少し拡大すると「文学とその社会的影響」でして、その方向にそって方針を変えてみます。
 「人間にとって酒とは何か」とか、「道楽=耽溺とは何か」とか。後者は少し望みがありそうです。
 『釣道楽』の後半(清江嬢と荒波漫太郎のお見合い編)および『酒道楽』『女道楽』に共通するのは、野蛮なタイプの道楽にとめどなく耽溺するタイプの主人公(たち)に、「清」たちが説教し、より文明的なタイプの道楽に導こうとするという構図です。
 「道楽=耽溺とは何か」に話を戻しますと、作中では現実逃避として描かれます。うるさい家族や金銭面の窮迫から心理的に逃れるために酒や芸者に溺れる。そしてそれがますます金銭窮迫や家族の非難となって返ってくるという負のスパイラルを、特に『酒道楽』は適確に描いています。
 そしてその負のスパイラルからの脱却の鍵となるのが、「清」たちが提唱する文明流の道楽(釣りや発明や事業や料理)でして。あらゆる道楽を禁止するのではなく、野蛮な道楽から文明流の道楽へ、という方向性が、この『新編百道楽』では提示されているわけです。
 一九〇〇年代(明治三〇年代)にあっては、この「野蛮から文明へ」というのは殺し文句でして。『酒道楽』を読んで禁酒に成功した、という読者のお便りがあったのも、そのあたりの影響力によるものと思われます。
 では、ほぼ同じ構造の『女道楽』はなぜ失敗(作品内でも演劇興行としても)したのか。そのあたりに『新編百道楽』論の鍵がありそうですが、長くなったので今日はここまでとします。