(注意 今回の記事は、昨年6月4日に書きました、「小林秀雄『常識』(『考えるヒント』)」(http://blogs.yahoo.co.jp/fktouc18411906/archive/2011/06/04)の補完、およびお寄せいただいたコメントへの弁明となっております。あわせてお読みいただければ幸いです)
とりあえず図書館で、『小林秀雄全集第十二巻 考へるヒント』(新潮社 2001)と、『機械のある世界〈ちくま文学の森11〉』筑摩書房 1988)を借りてきました。小林秀雄全集の校訂が信用できないことは前にも述べましたが、さしあたっては同全集収録の「常識」を参照します。後者にはポー著・小林秀雄・大岡昇平訳「メルツェルの将棋差し」と、中谷宇吉郎の略歴とエッセイ「実験室の記憶」が収録されています。
両者(特に前者)を再読してみたのですが、小林は、
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(全知の存在が二人で勝負したら、将棋という遊戯は成立しなくなる、という中谷宇吉郎との対話の後で)
ポオの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考へた。(略)
(電子計算機の原理や構造についても)ポオの原理で間に合う話だ。(略)ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考へることとを混同してはゐない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはゐない。熟慮断行といふ全く人間的な活動の純粋な型を表してゐる。
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と、つまり「機械には将棋は差せぬ」と断言しており、それがこのエッセイの結論だと私は判断しました。もしこれがジョークだとしたら、この「常識」という一文そのものが無意味なジョークだということになるでしょう。
にもかかわらず、その後の技術の進歩は、将棋を指せる電子計算機を可能にしてしまったのです。
別に自分が進歩させたわけでもない未来の立場から、小林秀雄をあざ笑うつもりはありません。小林は己の常識の及ぶ限りで人間と機械の境界を考え、しかし間違った。彼は批評家であって無謬の予言者ではなかった。
正解ではなくても意味のある、納得できる間違いです。私だって、人間と機械の間に境界がないとは思っていないのです。
現時点での私の見解は以上で終わりですが、ここにきて今まで知らなかった事実が明らかになりまして。
ENPEDIA 「メルツェルの将棋差し」の項より引用(http://enpedia.rxy.jp/2nd/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%B0%86%E6%A3%8B%E5%B7%AE%E3%81%97)
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小林秀雄が『新青年』昭和5年(1930年)2月増刊号に訳を発表したのが、日本で最初の紹介である。この翻訳は原典と比較すると訳出されていない部分も多く、幾分"抄訳"の気味がある。ひとつには発表当時小林は無名で、また『新青年』が飽くまで小説専門誌であったため、というのがある。もうひとつ理由として挙げられるのは、小林の訳はボードレールの仏訳からの重訳であり、ボードレール訳の時点で遺漏が多かったためというのがある。本エッセイは当時、ポーの作品としてあまり重要視をされておらず、英文原典を手に入れることが難しかったのである。又、冒頭に原典にはない数行を附すなど、小林のオリジナリティによる面も大きい。
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