核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

小林秀雄 「様々なる意匠」 (『改造』1929(昭和4)年9月)

 第五次小林秀雄全集第一巻(新潮社 平成14)と比較したのですが、今回は文意が逆になるような大きな異同はありませんでした。とはいえ、「眩惑の魔術」が「人心眩惑の魔術」になったレベルの異同は多数あります。
 文意をより明確にするための異同であれば、批判するつもりはありません。以下、文意そのものが変わりかねない異同のみ挙げてみます。旧字体新字体に改めます。
 
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 初出 今日、マルクスは詩人を、その「資本論」から追放した。これは決して今日マルクスのおけら(引用者注 「おけら」に傍点)達の文藝批評中で、(二 105ページ)
 
 全集 今日、マルクスは詩人を、その「資本論」から追放した。これは決して今日マルクスの弟子達の文藝批評中で、(2 138ページ)
 
 初出 たヾ、一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、あらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。そして、次のデカルトの言葉だけは人間精神の図式として信用し過ぎてもかまはないと思つたに過ぎない。
 「人が、もつてあらゆる現象を演繹出来る様々な根拠が、よもや嘘ではあるまいといふ事。―然し、私は、私が提出する様々な根拠を安心して本当であるとは言ひたくないといふ事。―のみならず、私は此処で、私が嘘だと信じてゐるいくつかの根拠を必要とするであらうといふ事」と。(終わり) 一九二九・四・廿八(六 112ページ)
 
 
 全集 たヾ、一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、あらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。(引用者注 以下なし) (151ページ)
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 「おけら」というのはこの場合「追従者」といった意味で、全集本での「弟子達」も、「不肖の」というニュアンスで使われているので、これは意味ではなく表現の違いにすぎないかもしれません。
 デカルトの方は、ちょっと調べてみる必要がありそうです。もうデカルトなんて読んだのはるか昔なので。
 なお、「様々なる意匠」の内容、もしくは態度については、初出全集ともに賛成できません。同じ懸賞で一等当選した「敗北の文学」のほうが、間違ってはいても、少なくとも何かを語ってはいます。