核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

対談「人間の進歩について」が書き換えられた経過

 ようやく初出から第四次、第五次小林秀雄全集にいたる書き換えの経過が明らかになりました。
 以下の通りです。それぞれの版を仮に(初出)や(単行本)と呼びます。
 
1948(昭和23)年 7月中旬、小林秀雄湯川秀樹の対談が京都南禅寺で行われる。
同年          『新潮』8月号に同対談が掲載される(初出)。
同年          12月、小林秀雄湯川秀樹共著『対話 人間の進歩について』(新潮社)刊行(単行本)。
1973(昭和48)年 湯川秀樹編『科学と人間のゆくえ 続半日閑談集』に同対談が収録される(湯川編)。
1979(昭和54)年 『新訂 小林秀雄全集別巻Ⅰ 人間の建設』(に同対談が収録される(第四次全集)。
2001(平成13)年 『小林秀雄全集第八巻 モオツァルト』に同対談が収録される(第五次全集)。
 
 講談社文芸文庫や第六次全集もあるのですが、見た限り第四次以降の全集と同一なので省略。
 大量の異同が生じたのは、(湯川編)と(第四次全集)の間、つまり湯川秀樹のチェックが外れた後です。
 語尾や表記の細かい違いは省略して、意味内容が異なる異同のみ。ページ数は諸本で異なって煩雑なので、章の小見出しをつけて引用します。
 
    ※
 小林「発達しておれば、あの唯物論と称する観念論的哲学が、あれほど日本のインテリゲンチャの間に、あれほど勢力を揮うという現象も起こらなかったかも知れない」(「人間対神」。(湯川編)以前では、「日本にももう少しそういうものが発達しておれば、たとえばあの観念論的哲学があれほど日本のインテリゲンチャの間に、わけのわからん勢力を揮うに至ったという現象も起こらなかったかも知れない」) 
 小林「どうもぼくには、ベルグソンが」~「考えていいと思うのです」(「予定調和ということ」。(第四次全集以降では削除)
 小林「近代の進歩思想というものは」で始まる発言(「進歩について」。(湯川編では全く別の文章)
 小林「肉体の秩序はただちに精神の秩序に連続していない。とすれば、肉体は亡びても……」(「進歩について」。(湯川編)で同箇所は、「人間は絶滅しても魂は絶滅しないかもしれない」)。
 小林「理性に頼るか、理性とはやはり一つの道具でしょう」」(「人間的原理」。(湯川編)以前にはなし)
 小林「理性というものは疑う余地は全然ない」(「人間的原理」。(湯川編)以前にはなし)
    ※
 
 ・・・特に問題なのは最初の異同です。人間についての科学が発達していれば、○○哲学が勢力を揮うこともなかった、という趣旨なのですが・・・「あの観念論的哲学」では何のことかわからない人もいるでしょうに。
 これは第四次全集以降の異同で明らかになったように、「唯物論と称する観念論的哲学」、つまりマルクス主義のことを指しているのです。
 私もマルクス主義は批判されるべきだと思っています。しかし、こんな湯川秀樹の威を借りたような、あてこすりめいた批判では意味がないと考えています。ましてや、かつての「マルクスの悟達」時代にマルクスレーニンを賞賛してマッハを罵倒していた自身の過去を棚にあげてでは。彼は決して反省なぞしないのです。