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一九六〇年夏、東海村で構築中の原子炉の巨大なドオムの壁を螺旋階段をつたってよじのぼっていたとき、ぼくは、不意に幻覚にとらえられた。壁の高みで空気もれをおこす小さなピン・ホールをさがしている若い科学者が、少年期のぼくをもっともauthentiqueに成長させた真のぼくであり、現実にぼくとしているこのぼくは負の記号のついた、にせ(傍点)のぼくであるという幻覚。
少年期の最初の意識の自己回転がはじまるころぼくは、たしかに、その実に具体的な手の作業をしている最前衛の理論を頭におさめた若い科学者のごときものにこそ、なりたかったのである。理論だけの専門家でなく、基本的な実験をつうじて具体的にものをつくりあげる科学者。ぼくは幻覚からのがれでると羨望のあまりに身ぶるいさえしそうになりながら、こう考えた、《あいつは獏(ばく)だ、おれの夢を喰ってしまって、ここにかくれていたんだ》
(大江健三郎 「最初の詩」 『厳粛な綱渡り』 1965 444ページ)
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authentique 1 (作品・署名などが)真正の、本物の
2 信ずべき、確実な
(『ライトハウス英和辞典』第4刷(1996)より)。
なお、原子炉の科学者に「羨望のあまりに身ぶるい」しているのは少年期の話ではなく、1960(昭和35)年当時の大江であることは、文脈から明らかです。
ただ、この「最初の詩」は1991年の講談社文芸文庫版にも収録されており、今日の価値観からみて穏当ではないにしても、不誠実ではありません。
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「文芸文庫」版のための編集は、物理的に分量を少なくするための整理であり、五十代なかばを過ぎた今でも、ぼくはこのエッセイ集の最初の版のすべての文章に責任をとりたいと思う。
(Juin'91)
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他の文章についてもあてはまるかどうか。