核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

『第二次スーパーロボット大戦α』(PS2用ソフト)、始めてしまいました

 私にとっては懐かしの鋼鉄ジーグから、初めて見るブレンパワードまで、20世紀アニメの正義のロボットたちが集って巨悪と戦うシミュレーションゲーム。これ自体がすでにレトロゲームなのですが、あるきっかけで始めてしまいました。

 で、ブレンパワード。のっけからリクレイマーがどうのプレートがどうのと、独自の専門用語がずらずらと出てきて、誰が敵なのかもわかりません。カール・シュミットより難解です。あの不思議ちゃんが主人公でいいのでしょうか。富野氏版エヴァンゲリオンのような第一印象を受けました。鋼鉄ジーグのような大昔のロボットアニメは、OPの歌だけでおおまかな敵味方の物語構造がわかったものですが。卑弥呼じゃなくヒミカ。邪馬台国じゃなく邪魔大王国。全滅、だ~。

 

 

「進歩主義」は進歩しているのだろうか

 本当は、「自称進歩主義ほど進歩しないものはない!」と断言しようとも思ったのですが。

 いい例が、毎年8月になるとマスメディアが繰り返す、太平洋戦争への反省の言説です。2022年も2023年もかわりばえしませんでした。去年はこれこれの課題を達成した、今年は次の課題にとりかかろう、そして来年は戦争がなくなる年にしよう、といった意味での、ほんとうの進歩が見られないのです。

 私はいわゆる進歩主義者ではないので(もちろん保守主義者でもありません。私が明治大正の埋もれた文献を主に扱うのは、現代を変える言葉を探すためです)、階級闘争にもとづく進歩史観なんてものはまったく信じていません。ほんとうの進歩とは、階級なんかではなく、個人たちの孤独な努力によってなされるものです。

 

小川未明「野ばら」の初出を読みたくなった

 読むだけなら青空文庫版でも十分なのですが、ある仮説を思いつきまして。

 また国会図書館に行くべき時が来たかも知れません。

 「敵・味方」をめぐる論をかたっぱしから読むことになりそうです。

『石巨人の迷宮』も山本弘作品だった

 ソードワールドTRPGシナリオ集『石巨人の迷宮』は、著者は水野良名義ですが、その表題作「石巨人の迷宮」は山本弘作品でした。

 日本国産のTRPGが軌道に乗り始めた、傑作ぞろいのシナリオ集。遊ぶには別売りの文庫版ルールブックと、同好の士数名が必要なのですが、当時のTRPGとしては敷居は低めなほうでした。

 で、石巨人の迷宮。これも今手元にないので(押し入れの奥にはあるはず。プレイしたのははるか前なので)、ネタバレにならない程度にうろ覚えで。心臓に宝石が埋まっているという石巨人の迷宮の伝説を聞き、冒険者一行はたんねんに地下迷宮の地図を作成しながら(ここ重要)、ストーンゴーレムだかジャイアントだかを探すのですが……。

 当時は「職人、山本弘」などとファンの間で呼ばれており、そんな山本作品らしい凝った仕掛けに満ちており、冒険の楽しさを満喫できました。

 ひたすら迷宮を漁ってモンスターと戦うだけで無性に楽しかった、黎明期のあの頃。

 マッピング(地図作成)なんてのは、コンピューターRPGではたいていオートになってるし、今時TRPGでそれをやりたがる人もいないでしょうから、古き良き時代のシナリオなのかも知れませんが。

 

太平洋戦争についても、大多数の日本人は知らないのでは

 前回、「大多数の日本人は、太平洋戦争以外の戦争について知らなすぎます」と書きましたが、よく考えたら、太平洋戦争についても、知られてはいないようです。

 「何言ってるんだ。特攻隊や原爆の悲惨さは、しょっちゅうテレビでやってるじゃないか」と言われるかも知れませんが、それらは戦争の結果であり、被害者側から見た戦争です。

 私が「知られていない」というのは、戦争の原因であり、加害者側から見た戦争です。北原白秋小林秀雄が開戦前からナチスを讃え、日米開戦論を訴えていたことは何度も書きましたが、彼らなどは下っ端の小悪党にすぎません。本当の責任者は……。

 テレビや新聞が毎度のように戦争の被害「だけ」を報道し、本当の加害者、戦争の最高責任者について論じないのも、日本国憲法第一条という縛りがあるからでしょう。私は護憲派ではありますが、憲法を不磨の大典とまで崇めているわけではないので、はっきりと書きます。タブーにとらわれず、昭和天皇の戦争責任を問うべきであると。

 これを書くと、各方面から罵倒を浴びそうです。「貴様はそれでも日本臣民か」「自民党改憲派を利するつもりか」……。私は臣民ではなく「日本国民」と自らを規定していますし(ああ、また新たな敵が増える)、平和主義や国民主権基本的人権を破棄したくてしかたがない改憲派を利するつもりもありません。それら日本国憲法の大原則に照らして、戦争という事態を問い直すべきだと言っているのです。

 「後から出来た憲法で、それ以前の戦争をさかのぼって裁くのはおかしくないか」というご意見もあるかとは思いますが、「裁こう」ではなく「問い直そう」というのが私の主張です。それに、「平和主義」という日本語やその理念は、少なくとも大日本帝国憲法(一八八九(明治二二)年公布)以前にはさかのぼれます。上から力ずくで押しつけ、結局たいして定着もしなかった天皇制よりも、下からわきおこった平和主義のほうに、私は正統性を見ます。

 西暦で5のつく年になるたびに、「戦後〇十年」と称して、戦争の被害者「だけ」をクローズアップし、戦争の最高責任者には一言もふれない、まさに「戦後的」な言語空間に、私は正直うんざりしています。そんな「戦後」を「世界平和前」に変えるためには、戦争の原因を一つ一つ、なくしていかなければなりません。

 

 

もはや戦後ではなく……

 どうせ2025年が無事に来たら、「戦後80年」だとか「むしろ今は戦前だ」といった言が語られることになるとは思いますが。私はもうちょっと、人が言わない言葉を語ろうと思います。

 今はもはや戦後というより、「真の世界平和まであと〇年」を語るべき時期であると。

 「楽天的すぎないか?」という声はあるとは思います。世界各地の戦争が終わる気配も見せないのに、何が世界平和だと。しかし、これは無責任な予言ではなく、実現されるべき努力目標です。

 あと何年後かまでは語れませんが、「あの戦争から80年後か」と感慨にふけるよりは、「真の世界平和まであと〇年!」と前向きに考える方が、いい対策を思いつくのではないでしょうか。

 もちろん、過去を学んではいけないという意味ではありません。大多数の日本人は太平洋戦争以外の戦争について知らなすぎます。戦争史ではなく文学研究を専門とする私でさえ痛感しています。日清・日露戦争を引き起こした利益線論、第一次世界大戦を引き起こした安全保障のジレンマについて、即答できる人がどれほどいるでしょうか?