核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

土田杏村「転向没落問題・自由主義・戦争論」(『経済往来』1933(昭和8)年8月号)

 河合栄治郎の「混沌たる思想界」の半年前に出た、土田杏村の時事論文です。
 直接に河合を名指し批判してはいないのですが、「自由主義」への批判には力を入れており、読み比べる価値はあると判断しました。
 ネット上でも読めますが、今回の引用は、『近代日本思想大系 35 昭和思想集Ⅰ』(筑摩書房 1974)によりました。
 
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 私(引用者注 土田)は自由主義を批判し、今の時代に起るには余りにも古い主張であるし、それの存在する地盤もないと論じたが、その批判の中で私自身が自由主義者になつた積もりはない。(略)
 多少ながらもマルキシズム的な思想を取つてゐたものが、今更自由主義に秋波を送るやうでは、我々はそれを許す訳にいかない。
 (386ページ)
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 河合がよりどころとした「自由主義」を、土田は明確に否定しています。「明確」とはいっても「明晰」ではなく、「古い」ということだけが論拠です。
 残る二つのテーマ「転向没落問題」と「戦争論」について。前者は佐野・鍋山の共同声明を「論理のガツシリしたもの」と呼び、その××(伏字。「天皇」)制擁護や戦争弁護論や大アジア主義を、「何としても獄中の産物」と訝りつつも、「私自身ほぼそれに似た考へを持つてゐる」と同意しています。
 そして戦争論。特に好戦的な論調ではなく、「軍人は軍事に、思想家は思想問題に、実業家は実業に」それぞれ国民として共同の努力をなすことが、「明治大帝の下し賜はれた教育勅語の御趣旨」だという結論です。
 たぶん、こうした論調(天皇制擁護、戦争弁護、自由主義批判)は特にファッショ的というわけではなく、当時としてはごく穏健妥当なものだったのでしょう。それゆえに、当時の人間ではない私は読んでていらいらするわけです。あらためて穏健妥当ならざる河合栄治郎がなつかしくなるわけです。
 土田杏村にはしばらく冷却期間をおいて、今度国会図書館に行った時に『象徴の哲学』を読もうかと思います。哲学者の価値を時事論だけで判断はできないと思いますので。