核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ヤウス『挑発としての文学史』(轡田収訳 岩波書店 1976) その3 ボヴァリー夫人関連

  実は新潮文庫版および筑摩全集版で『ボヴァリー夫人』なんてものを二度読みしてみたのですが、正直、どのへんに革新的な意義があったのか理解不能でした。ヤウスの言う「非人称的(ないしは局外者的)な語り方」というのは、フランス語で読まないとわからないのかもしれません。
 なので、今回は前回と逆に、ヤウスの論旨をそのまま書き写して終ります。
 文学が社会におよぼす作用の例として、ヤウスは1857年の『ボヴァリー夫人』裁判を挙げています。
 医者の妻、 エンマ・ボヴァリー が不倫と借金を重ねた末に自殺するこの小説ですが、争点は内容よりも形式にありました。「この本の中には彼女を罰しえた人物は一人としていない」こと(検事の発言より)。不道徳な人物を描いたことが悪いのではなく、作者が不道徳な人物に対して勧善懲悪の立場をとっていないことが問題となったのでした。フロベールという一作家ではなく、リアリズムという文学一派そのものが弾劾の対象となったわけです。
 以下、判決文より。
 「地方風俗、地方色を描くという口実の下に、作家が描こうとする事件や人物の言葉や身振りを、異常な形で描き出すことは許されない。このような手法が、美術の制作と同様に、精神の作品に適用されるとすれば、〈美と善との否定であるようなリアリズムに到達するのである〉」(74ページより)
 ヤウスはこの例によって、「文学作品が支配的な道徳のタブーを打ち倒したり、読者に生の実践上の道徳上の決疑論に対する新たな解答を提出」(75ページ)したりする文学の機能を明らかにできた、と結論しています。
 「自然や宗教や社会の束縛からの解放を求め」る機能を文学に求めるのは賛成ですが、『ボヴァリー夫人』よりもいい例がありそうな気がします。フランス自然主義文学に限定してさえも。