核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

那須与一に射られた舞う男について

 何百何千という犠牲者が出ているはずの源平合戦で、なぜ彼だけを特別視するのか。平○盛といった固有名を持つわけでもないこの人物に。それだけの問題があると思えばこそです。
先に引用した今井論では、与一が彼を射た心理を、「シュートを決めた直後に観客に乱入されて踊られ、晴れ舞台をだいなしにされたサッカー選手」にたとえています。
 絶妙なたとえですが、状況を正確にうつしてはいません。第一に「舞う男」は観客ではなく平家チームの一員であること(今井論の前段に従えば、舟に隠れていた狙撃手)、第二には、ここは人間にボールをぶつけてはいけないサッカー場ではなく、敵を一人でも多く討つことが奨励される合戦場であることです。
 ファインプレーを決めたのは敵側であり、命を賭けた合戦の場であるにもかかわらず、彼は敵をたたえて舞い、そして当の敵に射殺された。それが『平家物語』に描かれた通りの場面であり、どの諸本を見ても動かないはずです。
 この、「敵も味方も立場を忘れて感動する」場面というのは、『平家物語』にはけっこうありまして。
 手元にある講談社文庫版で見ると、畠山重忠に投げ飛ばされて先陣を切った大串重親に「敵も御方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける」(122ページ)とか。「忠度最後」の「敵も御方もこれを聞いて」泣いたとか(168ページ)。この「舞う男」の場面までは。
 舞う男が射殺されたとたん、「平家の方には、静まり返つて音もせず、源氏は又箙(えびら)を叩いて、どよめきけり」(「弓流」265ページ)と、はっきり価値観の共有は失われてしまいました。
 価値観の共有といっても戦争を否定するものではなく(どっちも武士だし)、せいぜい戦争の中でも哀感の「情」を失わない程度の価値観ではあります。しかし、そうした価値観の共有が保たれていれば、壇の浦の殲滅戦もあれほど悲惨なものにはならなかった、とも思うのです。私があらためて、「舞う男」の死に、古い覚一本にはなかったという「情けなし」の一節を思いだすゆえんです。これは感情論ではなく、感情についての論です。
 もう少し論じたいところですが、ここから先は、最低限の諸本を読んでからにします。

 (2015・2・21追記 「情けなし」という一節は覚一本にありました。その部分は私の誤読でしたが、論旨に変更はありません)