核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

黒島伝治「反戦文学論」への疑問

 反戦論だからといっても、なんでも賛成というわけにはいかないものです。
 黒島伝治への疑問は前にも書きましたが、このたび読み直して、私とは決定的な断絶があることを明らかに感じました。
 以下、、青空文庫反戦文学論」より引用。

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 戦争反対の思想、感情を組織して、労働者農民大衆に働きかける文学は、戦争が行われている時にのみ必要であるか。戦争が起っていない平和な時期に於ては、戦争反対文学は必要ではないか? いや、必要である。
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 これだけなら異議はありません。が、その前提が問題です。

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 プロレタリアートは、社会主義の勝利による階級社会の廃棄がなければ、戦争は到底なくならないということを理解する。プロレタリアートの戦争に対する態度は、ブルジョア平和主義者や、無政府主義者や、そういう思想から出発した反戦文学者とは、原則的に異っている。被支配階級が支配階級に対してやる闘争は必要で、進歩的な価値があると考える。奴隷が奴隷主に対しての闘争、領主に対する農奴の闘争、資本家に対する労働者の闘争は必要である。戦争には、残虐や、獣的行為や、窮乏苦悩が伴うものであるが、それでも、有害で反動的な悪制度を撤廃するのに役立った戦争が歴史上にはあった。
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 結局のところ、反戦を革命の道具としか見ていないわけです。黒島伝治という人は。というよりマルクス主義者のほとんどすべては。木下尚江が社会主義運動から去ったのも、村井弦斎福地桜痴が非戦論者になった後も社会主義に近づこうとしなかったのも、こういう雰囲気が耐えられなかったのではと思います。少なくとも私は耐えられません。
 平和主義に未来があるとすれば、「役立った戦争は歴史上にはあった」というマルクス主義者と縁を切ること。反感を承知の上で、私はそう提言します。

 2015・4・10追記 私はシベリア出兵に対しても否定派です。たとえ、レーニンスターリンの独裁を防げたかもしれない戦争であったとしても、「進歩的な価値」を認めるわけにはいきません。