今回の題名は下嶋哲朗氏の著書より。『教養としてのジェンダーと平和』(法律文化社 2016)より孫引きさせていただきます。
下嶋著に紹介されているという、平和学習に反発を感じる学生たちの声を引用します。
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「戦争はいけない、平和は大切だ。こんなこと誰だってわかっている。わかりきったことを言い合って、わかりきった結論に達する。これってWHY?を許さない学校の平和教育と同じじゃん。興味ないです」
「平和学習はマインドコントロールみたいに”平和は大事だ。戦争はいけないことだ”と繰り返す。正直、”もう、いいかげんわかったよ”となる。大切なのは、どうして学ばないといけないのか、ということ」
「平和学習というのは、小学校のときに見たものの結論と高校のときに見たものの結論というか、ねらいというのかどれだけ変わるのか。言ってみれば、小学校のときの計算練習をずっと高校までしているような感じになってしまっていないかな。だから、”こんなの、もういいよ”となる」
風間孝・加治宏基・金敬黙『教養としてのジェンダーと平和』21ページより抜粋
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「戦争はよくない」のさらに先が、必要とされています。従来の平和学習はその要望に応えきれていないわけです。
「一国民にすぎない私が、どうすれば戦争を止められるのか」それが要望される問題なのです。それに応えなければ、「軍事力による積極的平和主義」を説く安倍政権に人々が流れていってしまうことは容易に想像できます。
当ブログが明治大正の反戦小説を集中的に扱っているのは、まさにその「一国民にすぎない私が、どうすれば戦争を止められるのか」という問いへの、自分なりの答えを探すためです。が、文学という答えが唯一とは思っていません。各分野との協力による、平和主義のさらなる発展が望まれます。