西部邁『戦争論―暴力と道徳のあいだ』(ハルキ文庫 二〇〇二)という本は、メインタイトルよりもサブタイトルにひかれるものを感じてずっと前に購入したのですが、満足のいくものではありませんでした。
戦略論を欠いた「日本人が、総体として、戦略にかんして無教養であり白痴であることを認めるものである」(単行本まえがき 九ページ)をはじめとして、戦後日本人ないし平和主義者へのどぎつい罵倒がくりかえされます。
では、彼自身は戦争にたいしていかなる心構えでのぞんでいるのかというと。憲法九条の第二項と、それによりかかる日本国民を口汚く罵った末に。
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かくいう私とて寄る年波のせいもあって、いずれの陣営にたいしてであれ義勇軍に参加する勇気も才覚もない。
(四六ページ)
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……これが謙遜でないことは、同書に彼自身のいかなる戦略的含蓄も示されていないことと、自ら戦争に参加しようと(それどころか、ジャーナリストとして戦場に立とうとすら)した形跡のないことで明らかです。五十歩百歩、いや五十歩五十歩というべきでしょう。彼にとっての戦争とは、「寄る年波」(まだ六二歳です)の自分だけは優しく保護してくれる、安全な戦争なのでしょう。
では「寄る年波」になる前はさぞ愛国者だったのかというと、全学連の幹部だったというからあきれたものです。1960年前後の全学連がいかなる組織かは、以下をご覧ください。
大江健三郎『世界の若者たち』「日本の若者たち(3)北小路敏」(1961) - 核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ (hatenablog.com)
『イーリアス』『春秋左氏伝』の昔から無差別爆撃の現代にいたるまで、老人だけを優しく保護してくれる戦争などあったためしがありません。
こういうチキンホークの典型が書いた、たたみの上の戦争論から学ぶことなど一つもない、と言いたいところですが。
一つだけ共有できるところもあるから困ったものです。戦争をテレビや新聞や詩の「表象」からしか見ようとせず、戦争の現実から目をそむけ続ける、ある種の平和主義者へのいら立ち。
一般論ではなく、私はある特定の人物を念頭において批判しています。だからといって、西部邁の価値が相対的にでもあがる訳ではありませんが。
たたみの上でいきり立つ戦争論者と、テレビの前で座り込む平和主義者。どちらにもなりたくないものです。