ちょっと中野論への書評を中断して、頭を冷やすことにします。
私は新興宗教と詐欺が大嫌いなのですが、新興宗教の末端信者、詐欺たとえばねずみ講の末端会員には同情します。自らの判断が招いたにせよ、彼らは被害者なのです。だからってツボ買おうとかいう気にもなりませんが。
話をねずみ講にしぼります。親玉はまったく同情できない罰せられるべき加害者ですし、直属の子も同様ですが、孫やひまごはどう扱うべきか。ケースバイケースで処理するべきでしょう。
さて、小林秀雄をめぐる虚の言説の中で、中村光夫や大岡昇平といった直接師事した者たちを子とすると(彼らは全集編纂にも携わっており、小林の戦争礼賛ぶりを知っていながら隠蔽しました)、たとえば山本七平などという人は孫にあたります。
その証拠に、山本は小林の『我が闘争』書評をこう論じています。
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彼は『我が闘争』を「二十頁ほど読ん」だだけで正確にその真髄を嗅ぎとっている。今この書評を読んでもだれも奇異には感じまい。小林秀雄は戦前と戦後で「ヒットラー観」を変える必要が少しもなかった。
山本七平「小林秀雄の政治観」『小林秀雄の流儀』新潮社 一九八六(昭和六一)年 一八八頁
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……当ブログで何回も述べたように、小林はヒットラー観を「天才」から「邪悪なる天才」へ、戦前と戦後で180度書き換え、その事実を隠蔽しています。自らもイザヤ・ベンダサンと名乗り、『日本人とユダヤ人』で自称文化人たちをだました山本が、小林の一枚上手の詐欺にまんまと乗せられた形です。
では、小林秀雄を頂点とするねずみ講で、中野剛志氏はどのへんに位置するのか。
一九頁に「本書における解釈は、山本七平と適菜収のそれに近い」とあり、どうも最末端、一番損な立場のようですが、同情はしません。ねずみ講をここで断つためにも。