核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ゲーテ『ヘルマンとドロテーア』末尾の軍備による抑止論と、麻生太郎演説と、それへの批判

 ゲーテの『ヘルマンとドロテーア』を読んだのはだいぶ前なので、筋は忘れてしまいましたが、物語の最後で軍備による戦争抑止論を、花婿ヘルマンが花嫁ドロテーアに語っていたことだけ思い出しました。以前のゲーテ記事で、『ゲッツ』の末尾とか書いたのは勘違いでしたので訂正しておきました。ゲッツはそんなこと言わない。

 

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 「今にしろ、将来にしろ、敵が脅かして来たら、わたしに武装させ、得物を持たせておくれ。家と両親の世話はお前が引受けてゐてくれると思へば、わたしはこの胸を安心して敵に向ける。みんながわたしと同じ気になれば、力には力が対抗し、わたしたちはみんな平和を楽しむことが出来るやうになるだらう。」

 ゲーテ『ヘルマンとドロテーア』(改造文庫 一九四二(昭和一七)年)

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 ・・・・・・去る八月八日、政治家の麻生太郎氏が、台湾に行って、平和を維持するには戦う覚悟が必要、と講演し、物議をかもしました。ヘルマンと同傾向の思想といえるでしょう。平和を欲するなら戦争に備えよという。

 間違っており、必然的に戦争を招く思想です。ヘルマンや麻生氏と同じ気になる人がいるから、誰も平和を楽しむことができないのです。

 安全保障のジレンマについては、当ブログで何度も説明してきました。敵への恐怖のあまりにする過剰な戦争の準備が、敵側の疑心を招いて武装させ戦争を準備させ、それがまた味方の疑心暗鬼を招き・・・・・・という連鎖の末、ついに戦争が起きるという現象です。

 真の世界平和を欲するなら、少なくとも、戦争に備えるべきではないのです。

 ヘルマンや麻生氏の発言は、表面的には勇ましく見えても、実際には戦争への過剰な恐怖、臆病さに基づいています。ゆえに、ヘルマンは「みんな」(つまり、ヘルマン以外の人々)に戦争への準備を期待し、麻生氏は外国である台湾に「戦う覚悟」を説きます。本音は、「私は戦う」ではなく、「おまえたちは戦う覚悟をもて」(そして自分は逃げる)なのです。こういう指導者を持った国は災難です。

 繰り返しになりますが、平和を欲するなら、戦争以外の手段で備えよです。

 「戦争以外の手段」についての腹案はいくつかありますが、民主的・非暴力的な手段を用いて、上記のような戦争扇動者に権力を持たせないこと、という案を私は考えています。麻生氏は論外ですが、ゲーテについても、果たして文豪と呼ばれるに値する文学者なのかどうか、私は疑問に思っています。判定を下すのは、エッカーマンの『ゲーテとの対話』(これもデジコレにあり)を読んでからにしたいとは思いますが。