核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

連続ものの魅力は、「断続」にあり

 私は結局、豊橋には行けなかったのですが、現地では、村井弦斎を連続ドラマの題材に!という企画が大いに盛り上がっているようです。今回は、その「連続」ものの魅力について。私の独創ではなく、イーザーという文学理論家がかれこれ四十年以上前の、『行為としての読書』という本で述べていることと重なるので、手短に。

 「連続テレビドラマ」「新聞連載小説」と呼ばれる作品の魅力は、実はそれらが「断続」した作品であることについてです。つまり一日おきとか一週間おき、一ヶ月おきとか、次回の展開がわかるまでに、受け手の側で待ち時間が存在するのが、「連続」「連載」の特徴です。

 書き下ろしの単行本や一括上映の映画こそ、

 

 A B C D E F

 

 といった風に連続しているわけです。それに対して連続ものは、

 

 A □ B □ C □ D

 

 といった具合に、次回までの断続(イーザーの用語では「空所」)が存在します。その「□」の合間に視聴者や読者は、「普通に考えたら次はBが来るんだろうけど、いきなりDに飛ぶのもありかもなあ」と、あれこれ考える余裕が生れるわけです。『少年ジャンプ』の来週号が出るまでの間、同級生と次の展開を話し合う、あのわくわく感。アニメやドラマの次回予告ですごい断片的な場面を観た時の、「本編はどんなにすごいんだろう」感(裏切られることも多いのですが)。そういうふうに、「空所」を受け手側が埋める楽しみが、連続ものの魅力です。

 もちろん、

 

 A □ □ □ X □ W

 

 のように、空所が多すぎたり脈絡がなさすぎて埋めようがない作品もあります。話を弦斎に戻すと、たしか『桜の御所』という歴史小説を休載した際に、怒った読者が新聞社に殴り込んできたという挿話があります。空所だけから物語を紡げる想像力がある読者ならとっくに自分が作家になっているわけで、作者は適度に読者に、空所を埋めるためのヒントを与えなければならないのです。

 イーザーは空所使いの名手としてディケンズの名を挙げていますが、『郵便報知新聞』『報知新聞』『婦人世界』といった日刊新聞や月刊雑誌に身を置き、作品のほとんどを連載形式で発表した村井弦斎も、空所の使い方、読者のじらし方やあおり方に長じていました。一般読者には受けても、単行本の形でしか作品を読まない(むしろ読めない)批評家たちからは不評だったゆえんです。

 弦斎の生涯そのものを一本のドラマとして考えた場合、私の関心事はもちろん、

 

 軍国主義 □ 絶対平和主義

 

 の空所を埋めることにあります。できればテレビドラマが放映される前に、この空所を埋めたいものです。