核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

石川啄木「我等の一団と彼」、いいかも

 前に読んだ時は散漫なスケッチという印象を受けたのですが、読み返してみて見直しました。シュミットやムフ、サムナーやクリリン理論の人間集団観に通じるものがあります。人間の集団は構成的外部(つまり、いじめられっ子、はみだし者、共通の仮想敵)を必要とせずにはいられないという、あるいは「友」とは共通の「敵」がいる時にしか「友」たりえないという認識が示されています。

 青空文庫で手軽に読めました。

 

 「我等の一団」というのは、T―新聞社の、その集団に属さない記者の悪口ばかり言って盛り上がっている、自称「学問党」と称する一派です。

 そして「彼」というのは高橋という、「我等の一団」に属さない記者です。特に学問党と敵対しているわけではなく、高橋が別の派閥に属しているわけでもないのですが……なんか話が合わないのです。

 高橋に言わせれば、「批評」つまり陰口が嫌いなだけらしいのですが。陰口に乗ってこない高橋に、「我等の一団」は違和感と変な興味をいだき、ついに活動写真館まで尾行しますが、高橋という人間は相変わらず「我等の一団」と距離を置き続けます。

 一方、我等の一団の中の「私」こと亀井は、電車の中で旧友と再会します。陰口ではなく、共通の友人の話題で盛り上がります。なんか嬉しいような新しいような気分になった「私」は、病気でやめた同僚への手紙を書くのでした。

 

 最後の一段落(原文の「六」以降)だけは、共通の敵を前提にしない、個人どうしの友人関係が描かれています。

 おかしいのは「彼」こと高橋ではなく、共通の敵を作ることでしか一団になれない「我等」のほうだったのではないか。

 そこまでは書いていないのですが、シュミット的な、敵を同じくする「友」とは、違う形態の「友」がほのめかされているようです。「遠きにありて思う友」とでもいうか。

 先行論文はけっこう多いので、いますぐ論文を書く自信はありません。「小さな王国」論を先に片付けねばならないし。

 しかし、これ、もしかしたら暗礁に乗り上げている、単著『戦争の止め方』の、最後の一筆の助けになるのではないか。そう思わせてくれる作品でした。