「政治的に実存する国民は、(略)友敵を区別することを放棄できない」(『カール・シュミット著作集Ⅰ』)。
この『政治的なものの概念』の四年前には不戦条約(シュミットの文中でいうケロッグ協定)なんてものも結ばれてたわけですが、それも「友敵の区別」を廃止するものではないとシュミットは言います。たとえば、その不戦条約そのものを侵犯して戦争を行う国が現れた場合はどうなのか。国際社会はその国を「敵」として「友」の団結を強めるだけではないのか。シュミットは満州事変(一九三一)には言及していませんが、念頭に置いていたかもしれません。
とにかくシュミットが批判しているのは、不戦条約ができれば戦争はなくなると考えるような、おめでたい平和主義です。
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さらに、個々の国民が全世界に向けての友好宣言によって、あるいは、進んで非武装化することによって、友敵の区別を除去できると信ずるのは誤りであろう。(略。そういう国民は別の国民に「保護」されることになるので)そうした場合には、保護と服従(原文傍点)との永遠の連関によって、保護者が敵を規定することになる。
(二七六ページ)
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痛い指摘です。戦後日本にしろコスタリカにしろ、平和憲法なんて言っていられるのは、ぶっちゃけアメリカの「保護」あってのことだからでして。苦々しい限りですが、その対象はシュミットではなく現実そのものです。
私としては、そういう現状をこのままでいいと思っているわけではありません。といって、自衛隊を軍隊にすることで、シュミットのいう「政治的に実存する国民」に日本がなるべきだとも思いません。私が否定したい「現実」「現状」とは、「友敵の区別」そのものです。