核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

芥川龍之介「将軍」

脱稿。

本文を推敲し、注もつけ終わりました。 二転三転どころか七転八倒の産物です。長かった。 どっと眠気が襲ってきました。ひと眠りしたらヤンガスでもやるか。

「将軍」論できたぁぁぁ

とりあえず原稿用紙換算30枚に達し、「と本論は結論する」まで書き終えました。 粗削り段階ですが、磨けばなんとかなりそうな気もします。

そろそろ大詰め?

ジグソーパズルが進むと完成図がうっすら見えてくるように、そろそろ出来上がりとその限界が見えてきました。

逆回転。

どうも扇風機が涼しくないと思ったら、羽根を裏表逆にとりつけていたことに気づきました。とんまな話です。 組み立直して裏返したらちゃんと涼しくなったわけですが、応用できないものでしょうか。 書き足すたびに暑苦しくなるわが論文も、なんか裏返せば涼…

生きた反戦小説として読む

これまでの私は、どうも「将軍」を他人事として読んでいた気がしてきました。 白襷隊(決死隊)の兵卒や、処刑される捕虜の立場に感情移入してみると、また違った風景が見えてくるものです。研究者としては原始的に過ぎるかもしれませんが。 少なくとも、「…

「将軍」論、少しだけ進捗。

集めた先行研究を年代順に整理したら、隙間らしきものが見えてきました。 「軍国主義への抵抗」として読めそうな気がします。

トドロフのレンブラント観

トドロフは福島の災害についても言及しているのですが、思っていたよりは平凡な意見でした。代わりにレンブラントの自画像観のほうを。 ※ レンブラントはおそらく世界でもっとも多く自分自身を描いた画家であろう(ピカソの場合を除いて)。 (略) レンブラ…

「殉死の弊風」(『東京朝日新聞』一九一二(大正元)年八月一〇日)

改元直後に発表された、殉死は非文明的であり、不忠不義でさえあるとの論説です。 じゃあ乃木希典の殉死も批判しているのかと思いきや、その翌月、九月一四日の「乃木大将夫婦共に自殺」の第一報はやけに好意的でした。迎合的です。 桐生悠々の『信濃毎日新…

絆(ほだ)す

「ほだされる」という語をなんとなく使ってしまいましたが、「ほだす」という原型はあまりつかわないな。そう思って調べてみました。「絆」(きずな)という字で「絆す」。自由を束縛するという意味だそうです。 芥川の「将軍」に描かれているのは、まさにこ…

優しい顔をした軍国主義

芥川龍之介「将軍」の手柄の一つは、軍国主義の優しい顔の面を描き出したことにある、と思います。 軍国主義というものはしばしば軍靴の響きとか、部下を殴る上官とか、反政府主義者を連行していく憲兵という風に、恐ろしい顔の面を強調されがちでして(実際…

三浦篤「デューラー、レンブラント、クールベから現代まで 自画像の変遷」

『芸術の窓』二〇一五年八月。 自画像を「列席型」「変装型」「研究型」「独立型」の四つに分類し、デューラーらの自画像を最後に成立した「独立型」と位置付けています。 ※ 三浦 自画像をとにかく多く描いたのはレンブラントです。油彩、版画、デッサンも含…

自画像と自撮りのあいだ。

「自画像は己を見つめる必要があるが、自撮り写真は己を見る必要すらない」といった感じで、「将軍」の乃木写真とレムブラント自画像の違いを論じたいところですが、どうもうまくいきません。

グリゼルダ・ポロック『視線と差異 フェミニズムで読む美術史』新水社 一九九八

はたして水平目線はレンブラントの肖像画以降に特有と言い切っていいものか。気になったので、そのへんを扱ってそうな本を読んでみました。「第二章 視線、声、権力」という魅力的な題の章で。 ※ 芸術と社会に関するマルクス主義的見方には、回避すべき諸要…

軍国主義への抵抗の四形態

各節ごとに、疑惑→反発→逸脱→対話と、抵抗の形態が深化していく過程として読めそうな気が。 何のことやらかも知れませんが、本人も今のところ何のことやらです。

いかにして軍国主義に抵抗するか

二転三転したあげく、芥川論の副題は「いかにして軍国主義に抵抗するか」にしてみました。 ベタといえばベタですが、ようやく作品と気が合ってきたようです。

乃木希典最後の写真

「将軍」中にも言及されている、あの写真。 新聞に視線を落とす乃木と、正面をまっすぐ見据える夫人という構図。 乃木自身が指定した構図なのでしょうが、その意図を解読する必要がありそうです。 新聞がいつの何新聞なのかも気になるところですが、拡大して…

孔月「偶像の時代・精神の自由―芥川龍之介「将軍」における〈中間的〉まなざしの意味―」」

筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』二〇〇七・二五号。 「まなざし」を主題に「将軍」を読み解く論文。これを読まずに自論を展開していたらと思うと冷や汗ものでした。 私が書こうとした論は将軍自身のまなざしで、孔氏の論は将軍をとりまく人々のま…

宮本顕治「敗北の文学」中の「将軍」評

宮本顕治「敗北の文学―芥川龍之介氏の文学について」(『改造』一九二九(昭和四)年八月号)より。 ※ 「将軍」は? この将軍は、惨めにも手痛く嘲笑され諷刺されてゐる。この「長者らしい」将軍の軍服を剥ぎ取りながら、作者は無智で残忍で打算的な将軍の裸…

吉田精一『芥川龍之介 Ⅰ』の「将軍」評

吉田精一『吉田精一著作集 第一巻 芥川龍之介 Ⅰ』(桜楓社 一九七九(昭和五四)年)より ※ 龍之介はこゝで当時の偶像破壊、英雄否定の風潮にもれず、人間性の自然さを価値評価の基準としている。戦争に対する自由主義見地からの批評、偽善に対する嫌悪が、…

ジェンダー/セクシュアリティから斬る「将軍」

斬って斬れないことはない、と思うんですよ。材料はけっこうありまして。 将軍の視線が「ほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足る」だとか、あんな爺さんに手を握られちゃ嬉しくもねえなと言いつつ嬉しそうな兵卒とか。 かと思うと、下女との相撲や…

方向転換と再連結

将軍とは何か論から視線論に方向転換したわけですが、間をつなぐ理論が見つかれば、いい感じに連結できそうな気がしています。 たとえばバルトあたり、などというと、この間デリダを批判したばかりの癖にと言われそうですが、バルトはバルト、デリダはデリダ…

宮本顕治・吉田精一の「将軍」評入手

今となってはいかにも古いものですが、先行研究史中の数行として入手しておきました。 「将軍」以外の箇所も一通り読んでおきます。

現在、原稿用紙16枚

まだまだ枚数に余裕があるので、詰め込めそうです。 まず写真理論や視線理論による補強。こういう時だけは、バルトやフーコーが読みたくなります。引用するかは別として。 そして、「将軍」の現代的意義。プロパガンダにならない程度に。作品に忠実に。 とは…

芥川龍之介『侏儒の言葉』より「小説」

横光利一の『純粋小説論』に先立つ、芥川の偶然と小説論。 ※ 本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。 ※ ……逆に言うと、偶然の多い小説は嘘っぽいと。 ペテルブルグで別れた…

モデルではあっても風刺ではなく

結局、芥川「将軍」は乃木希典への風刺なのか。おとといの問題提起を受けて、現時点での考えを述べてみます。 乃木をモデルにしており、乃木についての予備知識(白襷隊とか殉死とか)を必要とする小説ではあるが、乃木個人への風刺ではない、というのが結論…

篠崎美生子『弱い内面の陥穽 芥川龍之介から見た日本近代文学』翰林書房 二〇一七

同書の六章の注45に、「将軍」にふれた箇所があります。 ※ 「将軍」(『文藝春秋』一九二五・一(引用者注 『改造』一九二二・一の誤り))には一六箇所の伏せ字があり、これについては「澄江堂雑記〔「将軍」〕」に「官憲は僕の「将軍」と云ふ小説に、何…

カール・シュミット『政治的なものの概念』(一九三二) その6

非武装型の平和主義に対して、シュミットはなおも嘲笑を浴びせます。不快に思われる方はお許しください。 ※ 軍備を持たぬ国民は友のみを持つと信ずるのは愚かであろうし、多分無抵抗性によって敵の心が動かされうると信ずるのは自己欺瞞的な予測であるだろう…

カール・シュミット『政治的なものの概念』(一九三二) その5

アウシュヴィッツの後でシュミットを引用することは野蛮であるか。いや、アウシュヴィッツをくり返させないためにこそ、シュミットを熟読する必要があると思います。たとえば以下のような箇所。 「政治的に実存する国民は、(略)友敵を区別することを放棄で…

カール・シュミット『政治的なものの概念』(一九三二) その4

シュミットは戦争を是認してはいましたが、賛美してはいなかったようです。 ※ 生き残った者の商業と工業を繁栄せしめるため、あるいは、子孫の消費力を増大させるために人殺しをし、自らも死ぬ覚悟をせよと人に真面目に要求するといったことは、恐ろしくもあ…

シュミットにも三分の理

芥川の「将軍」は、将軍という戦争遂行機関を、外部の者たちの眼から見た作品なわけですが。 将軍の内部の論理を説いた理論はないものか、と探して見つかったのがカール・シュミット。 将軍というよりその背後にある国家の交戦権についてではありますが。 ※ …