横光利一の『純粋小説論』に先立つ、芥川の偶然と小説論。
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本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。
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……逆に言うと、偶然の多い小説は嘘っぽいと。
ペテルブルグで別れた二人がモスクワで偶然ばったりといった、どんだけロシア狭いんだ的な偶然は確かに嘘っぽいですが、それは作者による「仕組まれた偶然」が見え透いているからでして。
もし人生(現実の世界)と同じように、無数の人々の意思決定が巧まずして誰かにとっての「仕組まれざる偶然」を形成している、といった小説が書けたとしたら、それは偶然の少ない小説以上に「本当らしい」ものになるでしょうが、どうしたら実現可能なのかはわかりません。ジードの『贋金つくり』や横光の『上海』はそれを企図したものかもしれませんが、成功しているとは思いません。