核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

真銅正宏『偶然の日本文学』

 横光利一の「純粋小説には偶然が必要」という問題提起を受け止め、小説における偶然について論じた一冊。
 私にとっても重要な問題です。「おわりに」から引用。

   ※
 小説を読む時、読者は、現実世界にはとても起こりえないような事件でも、それを予想することができる。小説世界では、事件ばかり起こる。読者はそれを、期待してもいる。私小説や心境小説においても、何も出来事の起こらない記述は少ないであろう。
 予想していたことが書かれているのであるが、それは現実世界とは違った出来事なので、改めて驚くことができる。否、ある程度予想していたことであるからこそ、安心して驚くことができる。安心して驚くなどということを可能にしてくれる世界は、現実世界にはない。そこには未知の事件への恐怖しかない。
 小説とは、このような、いわば安全装置付きの驚異体験を用意するものである。あるいはそれは、遊園地で絶叫マシンと呼ばれるジェットコースターを楽しむ行為に似ているかもしれない。お化け屋敷も同様である。本物のお化けが出るお化け屋敷には、あまり人は惹かれないのではないか。
 虚構の魅力とは、こんなにも単純なことなのである。種も仕掛けもあるマジック。そこに、人間は現実からの逃避顔貌を満たす快楽を見出す。虚構世界の構築には、このような使命がある。
 (二三五ページ)
   ※

 「今こそ小説は、この偶然の愉しみを復権すべきであろう」と続きます。
 日本の批評家たちは、上のような文学観とは逆の事を主張してきたような気がしてなりません。作り物のお化けを出すな、ジェットコースターの安全装置をはずせ。自殺する作家も出るわけです。