核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

18、虚構実現論(アンタルキダス)

18.虚構実現論(アンタルキダス) 一度虚構作品の形で現れたものは、いつ実現してもおかしくない。
 
 まず、現実と虚構の境界をどう考えるかです。私はこの現実世界は実在すると思っていますし、実在するものと実在しないものとの間には確かな境界線が存在すると思っています。ただ、その境界線について、人類はしばしば認識を誤ってきたし、今後も正確に認識できるとは限らない、ということをいいたいのです。
 たとえば、100mの世界記録はボルト選手の9秒58(2009年8月16日)とされていますが、もしかしたら調子のいい時のボルト選手はもっといいタイムが出せるかもしれないし、いずれはもっと速い選手も現れるかもしれない。
 しかし、「2011年9月30日の現時点ではボルト選手の9秒58が世界最速」というのは人類が(まあ、テレビやネットが使える先進国限定かもですが)、共通認識としてもちうる現実と虚構の境界線なのです。
 そこで、登場人物が100mを9秒57で走る小説があったとします。これは2011年9月30日の読者にとっては虚構かもしれませんが、いつ実現してもおかしくないし、未来の読者はそれを実話と受け取るかもしれません。
 現実と虚構の境界線は断固として存在するが、それは人間の意志や認識(誤認含めて)によっていつでも移動する。ゆえにすべての虚構は「もしかしたらいつかは実現するかもしれない」と読まれるべきであるし、すべての実話は「もしかしたら虚構であるかもしれない」と読まれるべきである。これは「すべては言語にすぎない」といったニヒリズムでは決してなく、健全な懐疑主義として理解していただきたいと思います。
 ただ、どうやっても実現不可能と思われる虚構というものも存在します。100mを0秒で走る人間とか、いっそのことマイナス10秒で走るやつとか。現実と呼ばれる認識の極に「この宇宙は実在する」があるとすれば、100mマイナス10秒の選手のごときは虚構の極といえるでしょう(あ、もし実在でしたらご一報ください。謝罪します)。
 虚構と現実の壁は確かに存在するが、人間がそれを正しく認識している保証はないのです。哲学者はよくペガサスだのホームズだのを非存在の代表みたいにいますが、もしどっかのマッドサイエンティストが人工的につくっちゃったらどうするつもりなんでしょうか。
 ・・・といった虚構観は、私の文学研究にいかなる実りをもたらすか。次回からは具体的な明治の小説を例にして、ごんべんの論理ではなくにんべんの倫理の話をしたいと思います。