通読し、さらにケインズを扱った「第十一章 貨幣の時代の憂鬱―ケインズ『一般理論』」をじっくり読みました。
(中断。ちょっと気分をそがれることがあったので、続きは明日書きます)
二〇二四年まで持ちこすほどの感想でもないので続きを書きます。
ケインズ経済学にそれほど深くつっこんだ論ではなく、ケインズら経済学者が、生きた人間を、経済人AやBとして抽象化してしまうことへの不満が書かれていました。私も経済学のモデルだけで人間社会が語れるとは思っていませんが、それを言ったら哲学や文学のアプローチだけで人間を語れるとも思っていないわけで、だからこそ経済人という「偏った」モデルを欲しているわけです。
とはいえ、この一事をもって内山著を批判するつもりはありません。貨幣を「憂鬱」なものとする視点は、たとえば貨幣を不可欠なものとする今村仁司著とは異なるものであり、論じるに値します。