核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大江健三郎 『M/Tと森のフシギの物語』

 大江健三郎論はいったん打ち切ると宣言したのですが、小林秀雄論について調べているうちにまた問題が出てきて、けっきょく新潮社『大江健三郎小説』全10巻を制覇するはめになってしまいました。
 で、1巻から順に読まなかったせいもあって、最後に出会ったのが5巻の『M(以下略)』(1986)。月報によりますと、小林秀雄をはじめとする読者からの『同時代ゲーム』(1979)への低評価に嫌気がさした作者が、自ら「異化」(この場合はリメイクという意味ですね。厳密には少し違うのですが)した作品だそうです。
 
 メキシコだの虫歯だのカラースライドだのといった余計な要素はばっさりカットして、いつもの「僕」(大江健三郎っぽい人)が語り手になっています。と同時に、アハハアハハという笑い方が印象的だった萌え妹キャラも自然消滅。そこ削っちゃダメだろ。
 
 「谷間の中央を流れる川と、そのこちら側の盆地の県道ぞいの集落と田畑に、川向こうの、栗をはじめとする果樹の林、山襞(やまひだ)にそって斜めに登る「在」への道。それらすべての高みをおおって輪をとじる森」
 
 すっげ~わかりやすい!最初にこれを読むべきでした。
 この村に伝わる、火薬で岩を爆破して村を開き、不死身の巨人と化した末に毒殺された「壊す人」や、その後を受け継いだ女族長(matriarch)といたずら者(trickstar。この二つが題名のM/T)の伝承が語られます。
 
 大江健三郎にとって、この森の神話が生きる糧であり、天皇神話に対抗する原動力であることはよく理解できます。しかし、この村もまた大日本帝国に対する「五十日戦争」なる戦争を行っていること(徴兵制で動員されてきた敵兵を容赦なく虐殺していることについて、語り手はなんら疑問を抱いていません)は、私が感情移入できない第一の理由です。
 感情移入できない第二の理由は、作中で引用されている、「わが国の民俗学を創始した学者、柳田国男の蒐集」したという、「昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ」という、語り手の伝承に対する態度です。結局、非合理きわまる天皇神話に対するに、もう一つの非合理な神話を対置させたにすぎないのではないかと思えてならないのです。
 
 結局のところ、「祈り」を原理とする大江健三郎と、「節制」(ソープロシュネー。知の健全さ)を原理とする私は、平行線をたどるしかないのでしょうか。