小林や大江を取り扱った最初の目論見では、彼らへの個人攻撃を展開する積りはありませんでした(その後、頭に血がのぼってしまった感はありますが)。私が考えていた大きなテーマは「文学は現実を変えられるか?」であり、まず文学が戦争や核開発を促進した悪しき実例を分析することで、その手法を逆用し、文学を平和や反原発の方向に役立てる道筋がつかめないかと考えたからです。
その後あれこれと研究を積んだ結果、文学が戦争を促進した実例は多くとも、その逆は非常に少ないということがいえそうです。その「非常に少ない」作品群をこれまでは個別の作品論として扱ってきたわけですが、そろそろそれらのエッセンスを抽出して、「現実をよい方向へ変える文学はいかにして可能か?」といった論を書きたくなりまして。
悪い方向(戦争や核開発)へと人々を導く言説が容易なのは、その方向に現実の「流れ」があるからです。大江健三郎の講演にいみじくもあるように、「現に東海村の原子力発電所からの電流はいま市民の生活の場所に流れてきています」という現状がまずあれば、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です」と付け加えるだけで、なんの労力も費やさずにすむからです。安易な道です。
では、善い方向、悪しき現状とは反対の方向に現実を変えるにはどうしたらよいか。「反対です」という発言には、たいてい「代案は?」という再反論がきます。仮にこなくても、現実そのものが代案を要求してきます(従来の戦争とは形を変えたテロや、エネルギー不足という形で)。現状追認よりも労力を費やすゆえんです。
そこで文学、ことに小説ができることは。モデルの提示、という形態がまず考えられます。もちろん自説にのみ都合のよいモデルであっては説得力がないので、隣接諸学の力を借り、非平和主義者や原発推進派にも容認可能なものにする必要はありますが。
まわりくどいと思われる方もいるかも知れません。しかし、「戦争反対!」「原発反対!」といったプラカードにありそうな文句をそのまま書きつけるだけというのは、文学としては怠慢だと思うのです。