核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

元号批判論

 何度も書いたように私は無神論者であり、イエスが神の子であるとも、天皇家がアマテラスの末裔であるとも、ムハンマドアッラー預言者であるとも信じておりません。にもかかわらず、私が論文やブログで西暦年を主に使用し、元号は文脈上必要な場合にのみ補うことにしているのは(「明治」という元号には、本格的な近代化以降という歴史的な意義があります)、元号という制度があまりにも不便すぎるからです。
 「康治元年から貞治元年の間」などといわれて、資料を見ずに年数を即答できる人が現在どれだけいるでしょうか。イエスが西暦1年に生まれたかどうかとは無関係に、通し番号としての年数表記は必要なのです。紀元前を扱う際に計算が少しだけ面倒になることと、イスラム暦との換算はさらに面倒だとかの問題はあるにしても。
 星新一のエッセイ『きまぐれ暦』に、西暦2001年1月1日をもって、「二千」(またはそれに通じる音)に改元しようという提案がありました。そうすればむこう1000年は元号問題が解決していたわけで、絶好の機会を逃したといわざるをえません。
 せめて公文書だけでも、西暦に統一するわけにはいかないものでしょうか。平成24年が今年のおおみそかまで続く保障はないのです。