核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

小林秀雄「常識」再論(『小林秀雄全集第十二巻 考へるヒント』新潮社  2001(平成13)年)

 このブログでもたびたび扱ってきました小林秀雄のエッセイ「常識」ですが、このたびandew様から、
 
   ※
 あなたが誠実な方なのであれば、改めて問います。
小林秀雄は、(ポーの理屈ではなく)
「神様(完全知の存在)が二人いないこと」を根拠とした「機械に将棋は指せない」
という説を本当に唱えていますか? ºï½ü
   ※
 
 とのコメントをいただきました。私は間違えることもありますが、基本的に誠実でありたいと思っている人間です。お答えします。
 コメント欄での返答とも重複しますが、「常識」を出来る限り原文に忠実に要約してみます(引用は、『小林秀雄全集第十二巻 考へるヒント』新潮社  2001(平成13)年によります。旧字体新字体に)。

1、機械に将棋はできないという、エドガア・ポオの「メールツェルの将棋差し」の論を紹介する(38ページはじめから39ページ4行目まで)
2、「電子頭脳」が「将棋を差すさうだ」という友達の話を聞く。そこで「読みといふものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういふ事になるだらうか」という疑問が生じ、中谷宇吉郎と対話してみる(39ページ5行目から40ページ4行目まで)
3、先の疑問をつきつめると、「先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか」という「勝負を無意味にする結果」が出るはず(これらは小林の発言ですが、中谷も同意しています)。そこで小林は「神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だった」「結論が常識に一致した」(これらも小林の発言。中谷は前者に「理屈はさうだ」と回答)と安心し、原稿の先きを続ける(40ページ5行目から42ページ10行目)。
4、結論部分。以下、原文のまま引用。
 「常識を守ることは難かしい」
 「ポオの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考へた」
 「あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入してくれば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考へることとを混同してはゐない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはゐない」(42ページ11行目から45ページ最後まで)
 
 以上のように、「1」(小林のいう、「ポオの常識」)だけでは、「はっきりしない」「原稿が進まない」状態だったわけです。
 そこで「2」~「3」(中谷との対話。「将棋の神様を二人仮定したのが不合理だった」という、「ポオの常識」に一致する結論)を経て、ようやく「機械には将棋はできない」という自論を確信するに至ったわけです。「2」~「3」は無意味な脱線やジョークではなく、「4」に到達するための不可欠な根拠なのです。
 「根拠」になっていないじゃないか、とは私も思います。必ずホームランを打つ野球ロボが発明され(呼びたければ打撃の神様とでもお呼びください)、両チームが採用したら、先攻必勝になって野球は成立しなくなる。しかし、その仮定は、人間どうしでやる野球が無意味だという結論にはならないし、ましてやロボットには野球はできない根拠にもならないのです。
 「常識」は論文ではなくエッセイであり、「考へるヒント」なのだと言われればそれまでですが、「3」での対話は思考実験として不徹底だし、「3」から「4」の間には、原文そのものの論理に飛躍があるのです。個人的には納得できないのですが、少なくとも小林自身はそれで納得したわけです。
 では、私の結論です。 「しかし、小林自身は中谷との対話で得られた、「将棋の神様を二人仮定したのが不合理だった」という結論が「ポオの常識」と一致したと感じ、「機械には将棋は差せぬ」という原稿の先を続けた。それは原文にあるとおりです。確かに「ポオの原理で間に合ふ話だ」との一文もありますが、ポオの原理だけでは「はつきりしない」「原稿が一向進まな」かったのも事実です。よって、私が以前に書いた、
 
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 最強の将棋指しが二人以上存在することはありえない、ゆえに機械に将棋は指せないというのが、小林秀雄の「常識」が導いた結論です。
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 という一節はそのままとします。何が「ゆえに」なんだという疑問は、私ではなく小林秀雄が答えるべき(そして答えなかった)問題です。「常識」についての弁明は、ひとまずここまでとします。