核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

抱月子(島村抱月) 「小説を読む眼」 『読売新聞』 1895(明治28)年8月26日

 『近代文学評論大系 第2巻 明治期Ⅱ』(稲垣達郎・佐藤勝編 角川書店 1972(昭和47)年)、34~35ページ収録。当時の読者層を分析した批評です。以下要約。
 
 第一、文章を愛づる眼        (依田)学海など。古風の学者に多い。
 第二、事柄を面白がる眼       最も下等の読者。(黒岩)涙香物・(村井)弦斎ものの愛読者。
 第三、感情に耽る眼         (尾崎)紅葉一門の小説。猫の心中話にも婦女子は泣く。
 第四、模型的性格を見る眼     時代小説。昔でいう気質物。(村上)浪六・(饗庭)篁村の小説。
 第五、観念の見えたるを喜ぶ眼  「観念小説」。此の頃の新流行。理屈ずきの批評家を喜ばす。
 第六、全き人間を見んとねがふ眼 今日の我が小説界にはなし。(幸田)露伴の作中幾分かは近い。
 
 泉鏡花らの傾向を、「観念小説」と命名した歴史的意味を持つ論です(解題475ページより。成瀬正勝「悲惨小説・観念小説の命名について」『東京大学教養学部人文科学科紀要』三九輯参照とのこと)。
 ・・・最も下等の読者より一言。私はものごころついた時からの次回予告フェチなのです。
 
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 手に汗を握りてこの先はどうなるかどうなるか(原文踊り字)に釣られ行く、講談師の「明晩」、新聞物の「以下次号」、馬琴流でいへば「又いか(原文漢字。「い」は「甚」。「か」は「麻」の下にタンヤオのヤオ)なる話説かある、そは次の巻に解分くるを見て知りかねし」など、
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 そして抱月は弦斎ものの特徴を、「善だま悪だまの配合至極都合よく出来居るため欲深き読者が覚えず其の事件中の善人に成りすまして役者とゝもに気を揉むたぐひのおもしろみなり」と分析しています。ありがとう。最高のほめ言葉だ。
 人間性を探求するのが文学ならば、ドタバタ冒険活劇で読者を一喜一憂させる芸を極めるのも、りっぱな人間性の探求だと私は考えます。そういうのを通俗よばわりする純文学者に限って、もっとずっと通俗的な善玉悪玉世界観にひっかかるものです。皇国史観とか、唯物史観とか・・・。