読むだけなら青空文庫版でも十分なのですが、ある仮説を思いつきまして。
また国会図書館に行くべき時が来たかも知れません。
「敵・味方」をめぐる論をかたっぱしから読むことになりそうです。
ソードワールドTRPGシナリオ集『石巨人の迷宮』は、著者は水野良名義ですが、その表題作「石巨人の迷宮」は山本弘作品でした。
日本国産のTRPGが軌道に乗り始めた、傑作ぞろいのシナリオ集。遊ぶには別売りの文庫版ルールブックと、同好の士数名が必要なのですが、当時のTRPGとしては敷居は低めなほうでした。
で、石巨人の迷宮。これも今手元にないので(押し入れの奥にはあるはず。プレイしたのははるか前なので)、ネタバレにならない程度にうろ覚えで。心臓に宝石が埋まっているという石巨人の迷宮の伝説を聞き、冒険者一行はたんねんに地下迷宮の地図を作成しながら(ここ重要)、ストーンゴーレムだかジャイアントだかを探すのですが……。
当時は「職人、山本弘」などとファンの間で呼ばれており、そんな山本作品らしい凝った仕掛けに満ちており、冒険の楽しさを満喫できました。
ひたすら迷宮を漁ってモンスターと戦うだけで無性に楽しかった、黎明期のあの頃。
マッピング(地図作成)なんてのは、コンピューターRPGではたいていオートになってるし、今時TRPGでそれをやりたがる人もいないでしょうから、古き良き時代のシナリオなのかも知れませんが。
前回、「大多数の日本人は、太平洋戦争以外の戦争について知らなすぎます」と書きましたが、よく考えたら、太平洋戦争についても、知られてはいないようです。
「何言ってるんだ。特攻隊や原爆の悲惨さは、しょっちゅうテレビでやってるじゃないか」と言われるかも知れませんが、それらは戦争の結果であり、被害者側から見た戦争です。
私が「知られていない」というのは、戦争の原因であり、加害者側から見た戦争です。北原白秋や小林秀雄が開戦前からナチスを讃え、日米開戦論を訴えていたことは何度も書きましたが、彼らなどは下っ端の小悪党にすぎません。本当の責任者は……。
テレビや新聞が毎度のように戦争の被害「だけ」を報道し、本当の加害者、戦争の最高責任者について論じないのも、日本国憲法第一条という縛りがあるからでしょう。私は護憲派ではありますが、憲法を不磨の大典とまで崇めているわけではないので、はっきりと書きます。タブーにとらわれず、昭和天皇の戦争責任を問うべきであると。
これを書くと、各方面から罵倒を浴びそうです。「貴様はそれでも日本臣民か」「自民党改憲派を利するつもりか」……。私は臣民ではなく「日本国民」と自らを規定していますし(ああ、また新たな敵が増える)、平和主義や国民主権や基本的人権を破棄したくてしかたがない改憲派を利するつもりもありません。それら日本国憲法の大原則に照らして、戦争という事態を問い直すべきだと言っているのです。
「後から出来た憲法で、それ以前の戦争をさかのぼって裁くのはおかしくないか」というご意見もあるかとは思いますが、「裁こう」ではなく「問い直そう」というのが私の主張です。それに、「平和主義」という日本語やその理念は、少なくとも大日本帝国憲法(一八八九(明治二二)年公布)以前にはさかのぼれます。上から力ずくで押しつけ、結局たいして定着もしなかった天皇制よりも、下からわきおこった平和主義のほうに、私は正統性を見ます。
西暦で5のつく年になるたびに、「戦後〇十年」と称して、戦争の被害者「だけ」をクローズアップし、戦争の最高責任者には一言もふれない、まさに「戦後的」な言語空間に、私は正直うんざりしています。そんな「戦後」を「世界平和前」に変えるためには、戦争の原因を一つ一つ、なくしていかなければなりません。
どうせ2025年が無事に来たら、「戦後80年」だとか「むしろ今は戦前だ」といった言が語られることになるとは思いますが。私はもうちょっと、人が言わない言葉を語ろうと思います。
今はもはや戦後というより、「真の世界平和まであと〇年」を語るべき時期であると。
「楽天的すぎないか?」という声はあるとは思います。世界各地の戦争が終わる気配も見せないのに、何が世界平和だと。しかし、これは無責任な予言ではなく、実現されるべき努力目標です。
あと何年後かまでは語れませんが、「あの戦争から80年後か」と感慨にふけるよりは、「真の世界平和まであと〇年!」と前向きに考える方が、いい対策を思いつくのではないでしょうか。
もちろん、過去を学んではいけないという意味ではありません。大多数の日本人は太平洋戦争以外の戦争について知らなすぎます。戦争史ではなく文学研究を専門とする私でさえ痛感しています。日清・日露戦争を引き起こした利益線論、第一次世界大戦を引き起こした安全保障のジレンマについて、即答できる人がどれほどいるでしょうか?
故・山本弘の多岐にわたる仕事は、前回の小論で語り尽くせてはいないのはもちろんです。
連作短編『詩羽のいる街』は、お金を一切持たない詩羽(しいは。水曜日のカンパネラの詩羽(うたは)さんとは無関係)という女性が、人々のかかえている問題を解決することで生活し、周りの人々をもしあわせにしていく、という物語です。
読んだのはだいぶ前なので細部は覚えていないのですが、この「お金を一切持たない」という生き方にはあこがれたのを記憶しています。
谷崎潤一郎の「小さな王国」論を書きかけた時に、貨幣論はずいぶん読んだのですが、貨幣のない社会が可能だという論は出てきませんでした。詩羽のような生き方は個人レベルで、それも特異な人間にしか可能ではないのかも知れません。それでも、読み返してみたくはあります。まだ、あの近場の図書館に置いてあるでしょうか。
「作者がでしゃばるようになると、マンガは末期症状だ!」
故・山本弘(もはや歴史上の人物につき、敬意をこめて敬称略とします)のTRPG入門まんが、確か「放課後のサイコロキネシス」中のまんが家の独白です。
よくある楽屋落ちではあるのですが、『ラプラスの魔』で小説家デビューし、『神は沈黙せず』を代表作とする作家の言となると、それだけでは済まなそうです。大作『神は沈黙せず』はまさに、創造主が太陽系規模ででしゃばって地球が末期症状になる物語なのです。
いずれ『SFマガジン』あたりが山本弘特集を組み、その作風をより仔細に分析することになるとは思いますが、とりあえず一読者である私が素描してみます。その根底にあるのは冒頭の独白にあるような、反神論的思考であると。スピノザの汎神論とはまったく違い、ドーキンスらの無神論とも似て少し違う方向で。
山本弘はSFのみならず、ゲームブックという、読者が先の展開を選べるジャンルで傑作を残し(『モンスターの逆襲』など)、トンデモ本と呼ばれる「作者の意図とはまったく異なる意味で楽しめる本」を探す、と学会の会長をつとめました。正直なところ『トンデモ本の世界』シリーズは、後期になるにつれて山本弘の、オカルトや予言者や宗教を攻撃する論調が激しくなり、ちょっと離れた時期もあったのですが、初期は大いに楽しみました。
本(被造物)は作者(造物主)の意図を超えた意味を持ち得る。読者は作者の意図なんかに右顧左眄(うこさべん)、振り回される必要はない。そのあたりがSF、ゲーム、トンデモ本収集の三方面を貫く、山本弘の大きなテーマなのでしょう。『神は沈黙せず』には聖書のヨブ記や、SFの古典『フェッセンデンの宇宙』への言及もあります。おもしろ半分に人や星を破滅させる造物主など、たとえ存在するとしても崇拝には値しない。そうした主張の根拠として。
この「たとえ存在するとしても」のくだりが、無神論とも少し違うところでして。
どんなトンデモ本にも作者はいるように、この宇宙というトンデモ世界にも創造主か、フェッセンデンのようなシミュレーターはいるかも知れない。いるとしてもトンデモ本の作者と同様、その一言一句をありがたがる必要はないし、恐れる必要もない。というふうに、私は山本作品を受け取りました。